渋谷実の世界は乾いていて救いがなく、その湿り気を欠いた諦観には時代を超えて現代に訴えかけるものがある。ストーリーはこの時期によくある不倫メロドラマに過ぎないが、渋谷らしい特徴は男側の主人公・佐分利信の存在感の薄さ。それにひきかえ所帯持ちの佐分利と関係を持つバーのマダム・高杉早苗は実に生き生きとこの時代のビジネスウーマン生活を謳歌しているが、そこに佐分利が影を落とす。
といっても佐分利は暴力とか権力をチラつかせて高杉をやり込めるわけではない。むしろ逆に、佐分利は家長として、サラリーマンとして、主に経済的に女性陣に対して権力も主導権も握っているのだが、それを行使する力を持たない、張子の虎のような男なのである。
女たちはそれでも佐分利に縋り惹かれる。ところが佐分利はそれに応じることができない。そのズレを渋谷はあくまでも突き放して冷たく描く。権力を持つ者な権力を行使する能力がないことは、権力の乱用と同じくらい悲劇的で残酷なことだ。その責任を問える人間がいない分だけ、むしろ権力の乱用よりも悪いかもしれない。権力を持つものの無能と無策と無気力こそ昭和の日本国民を破滅に追い込んだものではなかったか。けれども、人間は「強さ」がもたらす罪悪は裁けても、「弱さ」がもたらす罪悪は裁けないのである。
ここには悪人と言える人間は一人も出てこない。男も女もみんな弱さを抱えているだけだ。だから彼ら彼女らがお互いに傷つけあっても、その責任を取れる人間は誰もおらず、ただ徒労感と諦観だけが後に残される。渋谷実の世界は冷たく、救いがなく、現代そのものと俺には見える。