アメリカ映画の1970年前後というのは主にテレビの台頭による折からの観客減によって大手スタジオが次々と吸収合併され、その間隙を突くように独立プロダクションが多数生まれ、何を作ったら客が戻ってくるのかわからない配給側と若気の至りでいろんな映画実験を試したい制作側の利害が一致したことにより、変な映画が半ば乱造された時期であった。
ということでこの『ジョー』、後に『ロッキー』を撮ることになるジョン・G・アヴィルドセンがヒッピー風俗とそれを理解できない親世代のジェネレーションギャップを描いたもの、と一応は言えるが、ヒッチコック調のサスペンスのようでもあればヒッピー映画のようでもあり、オッサン2人の歪な友情のような何かを描いたドラマのようでもあれば唐突に殺伐としたバイオレンスに変貌したりと、一寸先がどうなるのかまるで読めず何がやりたいのか最後までよくわからない、まさにこの時代の落とし子と言うべき怪作であった。
その掴みどころのなさは行きつけの飲み屋で黒人とヒッピーと生活保護受給者に対する呪詛をずっと一人で話し続けてマスターに(またいつものアレ始まっちゃったよ……)という顔をされているネット右翼みたいなオッサンの名前JOEの文字に切り抜かれた3面スプリットスクリーンの実験的なタイトルバックによく表れていたように思う。一見同じ風景に見えるが実は3つとも異なるカメラのショットというこの騙し絵のようなタイトルバックは内容に反していかにも当時の若者向けっぽくデザインされているが、ヒッピー若者、貧乏ふにゃふにゃ右翼、金持ち剛腕白人という異なる社会階層の分断を視覚的に表現したものと見ることもでき、単にオッサン世代の若者文化に対する嫌悪と拒絶の表現された映画と言うこともできないんである。
右翼の貧乏オッサンを演じたピーター・ボイルは『タクシー・ドライバー』にも出演しているので、映画狂のスコセッシがルサンチマンが人の皮を被ったようなジョーの強烈なキャラクターをトラヴィスのネタ元にしたであろうことは容易に想像がつく。脚本のノーマン・ウェクスラーはその後『セルピコ』『マンディンゴ』と社会派かつリベラルな秀作・問題作を書いて『サタデー・ナイト・フィーバー』もこの人の筆によるものだが、遺作はシュワルツェネッガーの『ゴリラ』。この人のフィルモグラフィーもまた映画に負けず劣らず変でした。