SANKOU

エド・ウッドのSANKOUのネタバレレビュー・内容・結末

エド・ウッド(1994年製作の映画)
4.4

このレビューはネタバレを含みます

「ゴミのような映画は多いが、映画のようなゴミを作れるのは彼だけだ」とまで言われてしまうほどの史上最低の映画監督として知られるエド・ウッド。
監督であり脚本家であり俳優でありプロデューサーであるという彼は、オーソン・ウェルズのような偉大な映画人になりたかった。
情熱も夢も行動力も、そして意外にも人との出会いにもめぐまれていた。しかし才能だけが足りなかった。
そんな最低な映画を作り出した男の人生でも、映画にすればとても魅力的で心を打つ作品になるのだから、やはり人の人生は生きている間には分からないこともあるものだ。
エド・ウッドの映画をちゃんと観たわけではないが、彼に対する敬意を表すようなシーンがとても多いと感じた。
最初のクレジットでキャストの名前が墓石に彫られている演出もとても良かったと思う。
最初はエド・ウッドという人間は、映画を撮りたい気持ちはあるものの、資金繰りに奔走するあまり妥協を重ねて、最終的には映画の出来よりも完成させることが目的のようないい加減な男だという印象を受ける。
口だけは上手いから色んな協力者を得るが、全てがその場しのぎでポリシーも何もないように感じるが、物語が進むにつれて彼という人間に次第に魅了されている自分に気がつく。
キャシーという女性とお化け屋敷に入るシーンがあるのだが、その時の彼の心底楽しそうな姿を観ると、彼は本当に子供のような心を持っていて、自分が楽しむように人も同じようにワクワクドキドキさせて楽しませたいのだと思っていることが分かる。
だから彼の頭の中では色んな楽しいアイデアが生まれるのだが、悲しいかなその映像が彼の頭の中だけで完結していて外に出ることがない。
彼はもはや落ち目の元銀幕のスターであるベラ・ルゴシに出会い、彼と共に最高傑作の映画を作ろうとするのだが、そもそも彼の中での映画の魅力はベラがドラキュラとして一世風靡した時代のまま止まってしまっているのだろう。
ベラ自身「自分はもはや時代遅れだ」と悟っており、かつての栄光にすがって尊大な態度を見せようとする姿もあるが、本心ではどんな形でも話題になりさえすればいいと思っている。
こんな自分にもう一度光を与えてくれようとしているエド・ウッドに対するベラの感謝の気持ちと、心の底から彼をスターだと信じているエド・ウッドの想いが重なって、二人の間に奇妙な絆が生まれるのも面白い。
かつての面影もなく、薬物中毒になるまでに落ちぶれたベラが、エド・ウッドの作品の中で再び輝きを取り戻すのはとても感動的だったし、彼が突如亡くなってしまう場面には何とも言えない哀しみがあった。
ドラキュラの姿で棺に収まるベラ・ルゴシ。そういえばこの映画の初登場シーンも、彼がやがて入るだろう自分の棺に収まる姿からだったなと思った。
エド・ウッドが憧れのオーソン・ウェルズと出会うシーンでオーソンが語る言葉も印象的だ。
「映画を作って報われますか?」というエドの問いに「成功すれば」と答えるオーソン。
「夢の為に闘え。君は他人の夢を実現するために映画を撮るのか」とオーソンは語るが、実はこの時代に限ったことではなく、作り手が本当に作りたい作品を作れる例は本当に少ない。オーソン・ウェルズの傑作『市民ケーン』は彼が誰にも邪魔をさせないで作ったというが、そういう作品の方が稀なのかもしれない。
エド・ウッドの作品の酷さは、もちろん彼の才能によるところが大きいが、プロデューサーに口を挟まれたり、資金繰りの関係でキャストやシナリオを変更したり、余計なシーンを継ぎ足さなければならなくなったことにも原因があると思われる。
彼が不幸だったのは作品が認められなかったこともあるが、本当に自分の作りたい作品を世に出せなかったこともあると思う。
それは彼に限ったことではないが。
ともかくそれでも情熱だけで、作品を撮り続けて最低という呼び方のある意味最高評価を得られたのは大したものだとも思う。
この映画も彼の最低っぷりを描きながらも、決して彼の人生を馬鹿にはしていない。
動かないタコの足を自分で動かしながらベラが叫びながらもがくシーンや、映画館のプレミアで観客が暴動を起こすなど笑えるシーンは多いが。
ラストにエド・ウッドだけでなく、彼に関わった人間のその後の人生をテロップで紹介するあたりに、作り手の愛を感じた。
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