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ニコライとアレクサンドラのotomisanのレビュー・感想・評価

ニコライとアレクサンドラ(1971年製作の映画)
4.1
 サニーとニッキー。帝国なんぞなければいい一家だったろうに。また、帝政など敷かずにいられたら王権を神授したなんて意識にも囚われず、臣民らをああもあって無きがごとき扱いとせずにも済んだろう。しかし、それでいて民草に慕われ、帝国の空気が民を養っているとでも思っていたものか?ならば、確かに民政など必要あるまいし、国民が食うに、暮らすに困る政治を行っていようとは考えも及ばぬ事だろう。国民に関して働かす想像力が無いとは、そんな皇帝の認識であったからだろうか。
 そんな皇帝一家、終わりの始まりを待望の息子アレクセイ誕生が飾る。しかし、サニーを娶るにあたって帝室は英王室ヴィクトリアの血を引くサニーの血筋に血友病の懸念を持たなかったのか。まんまと血友病の血を追い出した英王室と、うかうか仕込んだ露帝室の運命の懸隔が印象深い。なにせ、唯一の世継ぎの血友病こそ、サニーを惑わせ、ラスプーチン寵愛を呼び起こさせ、政府廷臣にも国民にも一層嫌われる切っ掛けとなったのだから。
 嫌われるというなら、デカブリスト以来四代嫌われの種は尽きた例はないかもしれない。歴代、開明君主のようでいて、農奴解放も議会開設も帝政、専制維持の弥縫のように仕切ってきた諸皇帝である。反対者からの反乱と暗殺の横行に遂にニッキーも嫌気がさし、国民に背を向け、私事にかまけ、それさえサニーの蒙昧ぶりに苛まれればなんと大戦の前線にまで逃げ出すとは倒錯にもほどがあろう。その中途では旅順への執着など、おかげで日本も余計な苦労をさせられた。とんだ暗帝である。
 この愚かな家庭人がただの人となって、肩の荷が下りたように落ち着いて見える残り時間が不思議にも見る側の中盤、前線逃亡期の苛立たしさを払拭してしまうようだ。振り返れば、舵を切る機会が常にあったと思い返され、それでも切り返せなかったことを悔やみ、倅アレクセイからさえ恨み言を浴びる父親に、渦中にあっては確かにそんなもんだと、あの時ああすればと思い出しても、やはりそうはしない心持が今となっては理解できないのに、外にどうあり得たかと真逆にも思われる。失敗事は孤児どころか誰が父親か分からない闇があるように共感された。
 こうした救いのない余生をそれでも一家ひとつにまとまれて何ぼか幸福かもしれない。たとえ拘束側が全員一括処刑も考えの内で一家を分ける意図がないとしてもだ。もともと一枚岩なわけではない階級社会ロシアだが、さらに政党や地域政権の対立で罅が入ったロシアで、皇帝の無策が多くの家族を引き裂いたロシアで当の元皇帝一家がこうもきれいに結束している。殺すならきれいに一緒に殺してやるのが功徳とも、これが象徴的にロシア最後の大家族とも思えてしまう。なにしろ、革命とソビエトは親も子も、密告で粛清で戦争で増々壊わしてしまうのだから。
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