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交渉人のotomisanのレビュー・感想・評価

交渉人(1998年製作の映画)
4.0
 横領と殺人の罪を着せられて警察の面汚しとされたローマン氏が一か八か、彼が第一容疑者と目す内務調査局長を人質とし執務室に立て籠り、わざわざ遠くの他人ながら腕利きらしい交渉人を名指しして自身の潔白と局長の容疑性を訴える。

 その結果、これが全く暴力的な雪冤で、またそれを上回って理不尽とすら思える警察の制圧行となる。だが映画制作サイドの狙いはこんな上っ面を面白がらせてお終いとするところには無いようだ。
 見終わって先ず思い浮かんだのは、人が担う以上、権力は悪と化す事は避けられず、それでもそんな権力には個人の力を集めて、ともすれば本件のような武闘からその後の法廷戦まで織り込んで戦わなければならない事、これが合衆国の成立の元であって、議会開催、憲法発布やらあれこれ、本国と戦う事から始まっている。これが独立戦争であり日々のこうした銃撃戦であり、それを受け入れることにより合衆国は今後も維持される、という事なんだろう。
 そして、これらを踏まえ、このローマン氏による人質事件は、冤罪を仕組む横暴な権力(局長)に対する個人の戦いであるとして、そもそも、合衆国が宣言された当初以来の合衆国のあり様を、この映画を見ているあなた、あなた自身が思い返し、あなたがなぜ合衆国民であるのか?これからもそうあり続けるつもりでいる、とするのか?を問いかけるようでもある。
 むかし、王権に対し皆が民兵として戦って独立したひそみに倣い、例えばこの横暴な権力者・局長がローマン氏に与えようとするような損害を次は別な形、悪が遍く潜在するこの世界にある限り、別な横暴な権力者が現れ、あなたにも害を与えるかもしれないではないか、ならばあなたはローマン氏のこの暴力的振る舞い、局長の共犯者ではないにもかかわらず巻き込まれた人質への暴力行為の進展についてのローマン氏の違法性をいささかなりとも感じるのだろうか?と問いかけるような感じだ。
 なんだか話が筋違いとも思えるが、悪に化した権力に直接の関与がなかった彼等ではあるが、そうであるとしても、局長の不正を直感できたあのときローマン氏と共に戦わない、その戦いを支持しない理由は何か?そんな何かがあるなら、それは合衆国の本来性を否定する事になりはしないか?と突き付けるところに制作サイドの狙いがあるのだろう。無茶もいいところだ。だから、人質それぞれの警察に身柄を確保されてののちの態度のブレがその通りローマン氏の無茶を呑むか呑まないかで露わにされる。
 ただし、当然、二百年前に本国政府、英国王に取り入る者がいてもそれは当人の自由であったろうし、悪の絶えるいとまがないのもこんにち常の事である。しかし、だからこそ合衆国は戦い続けるのであり、その国民は特に、悪くなった権力、今度は自国の政府、警察、敵対政党による諸制度、世界のいたるところにある非米的な何等かとの常在戦場、常に兵士たるのこころを持つべきであって、自由とはとりわけ権力の横暴を撥ねつけるところにあるという事である。風に柳の日本から見ればとんでもない事だ。

 裁判について「一事不再理」という言葉がある。これを日本では、一つの事件において一審から最終審までを一事と捉え、その間、弁護側、検察側どちらも判決に不服があれば上級審に控訴できる、とする。ところがアメリカでは同じ一事を初審ただ一度の事と捉えているそうな。
 ということは、陪審員が「犯罪はない」と評決すれば検察側は控訴できないという事だそうだ。ただ、被告からすれば敗訴は不当な扱いの延長に過ぎず一事はこれで終わらないから控訴権を確保でき新たな証拠発掘に向かえる。
 ならば、この物語について成り行きとは逆に、もしもローマン氏がおとなしく元の横領・殺人の容疑を受け入れ裁判に臨むなら、敗訴しても上告は繰り返せる。ただ、巧妙に捏造された証拠と警察組織および犯行グループの隠蔽の壁に阻まれ無罪立証ができないと想像されるならどうだろう?
 そこで窮余の策として、短い猶予期間を衝き真犯人と目した局長を人質に立て籠り、その間に、当の真犯人・局長の根城で濡れ衣の事件とこの人質の件もろとも初審で一括無罪に持ち込むに足る証拠、当のローマン氏の捏造ではない、第三者的人質の監視下で暴かれる、その現場ならではの証拠を搔き集め、この現場を第三者的人質をもって陪審員に見立てたローマン氏の私設模擬法廷と化し、局長のウソを暴いて陪審人質らにローマン氏についての無罪感触も与えてしまおうという活路がありはしないか。そのためには何としても制圧を阻止し全員を生還させなければならない。
 もちろん、ほかに雪冤の機会も機縁も得難いと広く認められなければならない。そのために、隠滅の恐れが強い、その時その場限りな証拠および新展開への糸口となりうる局長周辺からの証言を確保するという、この人質事件の機会唯一性および暴力最小性アピールが堅持されなければならない。つまり現場に居合わせてしまった第三者・陪審人質の好意的証言を同時に確保することがローマン氏の凶行における将来の裁判に備える第一課題となる。これはもう超人のなせる業だ。

 結果はどん詰まりの中で黒幕が無線経由で警察関係者一同に向かって犯行声明を出すヘマで一挙解決となるが、実は問題はその先、拭い難い警察内での横領事件の裾野の広がりの疑いと、かの面汚しの抹消に性急になった件に移行する。
 横領への連座を隠蔽する目的だったのか、警察への汚名にフタをするのが目的だったのか、制圧を急いだ指揮官たちの真意が読めない終局にあって、英雄的なローマン氏とトリック全開な交渉人以上に普通の人間的な署長や突入班長の姿が印象深い。同時に超人ローマン氏よりもよほど自分に近い警察幹部らの真相解明後の心中のどよめき、先日まで同僚だったローマン氏を射殺対象として事を急いだ挙句、今また元通り同僚として迎えなければならない事の葛藤がこちらのこころにまで澱んでくる。
 こうして嫌な気分の胸のつかえに加えて、模範的ローマン氏の超人振りに接し、自分はアメリカ人である事がまた一つ重荷に思えて来るのだろう。しかし、横暴な権力を否認する世界の警察官である立場からはそうやすやすとは下りられないし、ローマン氏の不幸の道連れで共に戦う事も弾雨の下をくぐる事もどこか同意せざるを得ない一筋が誰にもあるのではないか?そんなどっちつかずを引きずる傍らで、冷戦は終わったのに多極化し疎隔を強める世間はより一層厄介になってゆきアメリカもほとほと疲れる。いやな世紀末直前だ。
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