レインウォッチャー

ザ・ブルード/怒りのメタファーのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

4.0
憎悪、恐怖、そして贖罪。

かの『ハリー・ポッター』シリーズには「ボガート(まね妖怪)」と呼ばれる魔法生物が登場する。
こいつの特性は、対面した者が心の奥で最も恐れるものを読み取って変身してみせる、というものなのだけれど、これは多くの作家とその作品の中で生み出されるモンスターやクリーチャーとの関係をそのまま言い表しているように思う。

作家が具現化する「恐怖のすがた」には世の中の何に対して気持ち悪さや怖れ、憎しみを感じるか…ということがありありと現れる。流行する怪談や都市伝説が、少なからず当時の世相を反映しているように。

デヴィッド・クローネンバーグはナマナマしい恐怖造形の名手。
今作は彼の初期代表作であり、同時にとても個人的な作品だ。当時元妻との拗れた離婚問題が〜云々、というのは語り草なエピソードとなっているけれど、それ以上に今作の「恐怖」が子供の姿をとっているというところが興味深い。

元妻に対する怒り(は、もちろん主人公の妻ノーラに投影されている)以上に、彼が最も恐れていたのは子供の存在だったのかもしれない。(実際、娘の親権争いは騒動の中心にあったようだ)
大人の汚い争いに巻き込まれた子供からの物言わぬ糾弾の目線や、将来に与えかねない悪影響。それが今作の、子供を守りつつ子供に襲われ逃げる…というストーリーに直結しているとは考えすぎだろうか。

今作に登場する邪悪な子供たちはある種の奇形として設計され、話すこともできず、ただ異常な暴力性を見せるのみだ。作り手は、子供という存在の中に潜む純真性と裏返しの残酷さを何より恐れていたのだろうか。
そして彼らを生み出すのも大人、殺すのも大人…という、エゴの犠牲としての存在。恐ろしさだけではなく、どこか哀れみを覚えずには得られない造形から、罪悪感のようなものすら感じることができる。

ところで、妻ノーラの部屋には、彫刻家アルベルト・ジャコメッティの肖像や作品の写真が置いてある。
ジャコメッティは極端に細長い不気味な人体彫刻で知られるけれど、彼はそれこそが「人間の本質的な姿だ」と言っていたらしい。騒がしい通りを行き交う人々が抱える虚無を、彼は見抜いていたのだ。

このジャコメッティと似た視線をクローネンバーグもまた持っていて、今作の忘れがたい怪異を生み出したのだろう。
タイトルの「brood」とは、「腹の子」と「気に病む」といった意味をあわせもつ。今作にとってまたとない言葉であり、クローネンバーグが視た恐怖のすがた、その二重性が凝縮されている。

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カナダの雪景色の中、時折差し込まれる赤にハッとする。
終盤におけるノーラの存在感は、白と赤のコントラストも相まってベルイマンの『叫びとささやき』みを感じたりもしたけれど、どうだろう。

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多くのジョジョラーは、今作を観た際「遠隔自動操縦型スタンドッ!」と思うのではなかろうか。完全に本体のコントロールが効くわけではない感じ、まさにじゃあないか。
荒木飛呂彦氏が今作を観ていたかは不明だけれど、映画好きでも知られる同氏。それにクローネンバーグの『デッドゾーン』には著書でも触れていたりするし、発想の源となった可能性はある。