映画漬廃人伊波興一

神々の深き欲望の映画漬廃人伊波興一のレビュー・感想・評価

神々の深き欲望(1968年製作の映画)
3.6
教え子たちに農業を課した映画人の教義〜ドグマ

今村昌平
「神々の深き欲望」

その画面が白黒であろうがカラーであろうが、あるいはその舞台が南国であろうが、都会のど真ん中であろうが、例えそこが寒村であったとしても、水蒸気がとどまることを知らない勢いで生成する湿り気が、観ている私たちを思わずむっとさせる。

それが今村昌平の映画世界の教義〜ドグマというべきものです。

デビュー作「盗まれた欲情」から遺作「赤い橋の下のぬるい水」だけでなく、脚本のみを担当した愛弟子・西村昭五郎監督のデビュー作「競輪上人行伏記」に至るまで、その教義〜ドグマにだけは一貫して忠実でした。

とはいえ、そんな湿り気が、劇中人物たちの勃勃たる英気や旺盛な求知心をあっさりと奪ったり、彼らの因習を打破したりするわけでは決してない。

むしろ彼らは、身の証をたてるように、労働に勤(いそ)しみ、神事の妄執に取り憑かれ、色恋に惑溺する。

彼らはいかなる過酷な環境であろうと、隻脚の傷痍軍人のように足元が覚束ない状態になろうとも、いつも(見境がない)。

この(見境がない)事が、今村昌平世界のもうひとつの教義〜ドグマです。

「豚と軍艦」の長門裕之、「人類学入門」の小沢昭一、「にっぽん昆虫記」の左幸子から「復讐するは我にあり」「女衒」の緒形拳、あるいは「ええじゃないか」の桃井かおりや泉谷しげるなど、これほど(見境がない)男女を描き続けた作家は、世界でもそう多くはない、と思う。

それは文字通り人間の本性をむき出しにする事に他なりませんが、ここまで一流の俳優陣を原始社会に集約させたこの作品の中で、とりわけトリ子を演じた沖山秀子さんが素晴らしいです。

一応クレジットタイトルに(新人)と付されていますが、この新人の(見境の無さ)ぶりは、監督の執念が憑依したかのように、撮影現場でベテラン三國連太郎や嵐寛寿郎をたじろがせたのではないか、と思わせるほど圧倒的な存在感で私たちに迫って来ます。

映画はケレンこそ命、と普段は無責任に決めつけているわたくしにとって、(完璧主義)や(徹底したリアリズム)などは大きく嗜好からかけ離れていますが、こうまで眼差しに込められた蠱惑を、叩きつけるように見せられると、分かり切った仮構だと理解しながら、その成り行きを固唾を飲んで見守ってしまいます。

おそらく当時劇場で見ていた方々は、映画にのめりこんでいる間じゅう、互いの違いをそれぞれに意識しながらも、思わず苦笑いが一致したときには、劇中でトリ子の身体を求めて夜這いする青年たちに似た、ある意味、絆にも近い連帯感が芽生えていたのではないでしょうか。

描かれている季節は夏以上の暑い夏で、罪より黒い近親相姦が枷(かせ)となり、草花でさえ芬芬(ぷんぷん)匂ってくるような、「神々の深き欲望」という映画には、痛感が最も過敏な部分に画鋲をつき刺してくるような場面が至るところで現れます。

それらを文明批判という主題のみで捉えるのはあまりに定型的で勿体ない。

名優佐藤允さんを父にもつ映画監督の佐藤闘介さんはかつて今村昌平監督が校長をつとめた映画専門学校の第一期生だったそうで、彼が(イマヘイ学校では映画製作とは一見何の関係もない農業実習というものが授業にあったんですよ)とお話をされているのを聞いた事があります。

そんな話からでも合点がいくのは、やはり今村映画の最大の教義〜ドグマともいうべきは、(共同体)というもの。

古い因習に縛られた南国の孤島クラゲ島が、押し寄せる近代化の波に飲み込まれ、一度は東京に出たものの、今では観光地となったクラゲ島の観光列車の機関士として従事する河原崎長一郎は自問します。

(実の父まで死に追いやった自分のしてきた事は何だったのか)、と。

「神々の深き欲望」を観る者は、この問いと必然的に向き合う事になります。

それは失われた(共同体)への郷愁なのか。
あるいは(共同体)の崩壊に加担した事への自責なのか。
ひょっとすると、列車走行中に時折現れるトリ子への近親相姦的な未練なのか。

そうした問いを宙に吊ったまま映画は、大海原にただよう赤い帆の船を背景に、不穏な余韻と共に終わりを迎えるのです。