このレビューはネタバレを含みます
レビューを投稿する度に書いている気がしますが、お待たせしました。
しばらくは、こういった頻度でしか投稿できない由をご理解頂きますよう、よろしくお願いします。
余談を長くしていても仕方がないため、早速本編へと入っていきます。
ぜひ楽しんでいって下さいね!
では参ります。
矮小で下らない人類の、囁かな人生の肯定。
『ナイト・オン・ザ・プラネット』に続いて、ジム・ジャームッシュ監督作品2作目です。
この映画はとにかく画が良く、観ているこちらもお洒落になれたと錯覚してしまうほどに、洗練された映像を楽しむことができます。
ただ本作の魅力はそれ一辺倒なものではなく、寧ろその根底、11篇のオムニバスとして展開されていく各エピソードの哲学、精神性にこそ、本作の本懐があると感じました。
という訳で、今回は各エピソードにざっくりと触れながら、本作が良作である所以を明かしていけたらと思います。
最後に気になった箇所も記載しておきますので、そういった点が気になる方は※印を付けたパートまでスクロールして頂けると幸いです。
また、2エピソード目に関しては、別で1本のレビューを投稿していますので、より詳しい内容はそちらを参照して下さい!(『コーヒー&シガレット2』という作品名です)
まず1エピソード目の「変な出会い」は、代わりに歯医者に行ってもらうという、代われるなら代わってあげたいよを、地で行う内容でした。
やり取りの妙が、爆笑とまではいかずとも鼻で笑うくらいには心地よく、意味のない席替え含め、短尺な中でもしっかりとコミカルさが光っていました。
偶然による産物、日常のあわいで見落としてしまうかもしれない少しの幸せに、光を当てているのかなと感じました。
最も普遍的で、間口の広い話であったように感じます。
次に、2エピソード目の「双子」ですが、こちらは黒人の双子が、カフェの店員からエルヴィスの話を持ち掛けられたものの、結局双子の方がエルヴィスについて詳しかったといった内容となっていました。
知識をひけらかすことの愚かさ、自意識過剰が招く摩擦が、店員とのやり取りでは主眼に置かれていましたが、そこから本作は発展し、エルヴィスの「真似」が双子の中でも起こり始め、理性によって抑制していたとしても、結局は同じ人間であって、嫌悪する対象になってしまうこともあると、説いているように感じました。
どこまでいっても正しくあり続けることは難しいのだと、本作と併せて数多の創作を見ていて痛感させられますね。
続いて、3エピソード目の「カリフォルニアのどこかで」では、同じミュージシャン同士が会話する中で、最終的にどちらも損をして帰ることになるといった内容が描かれます。
自己顕示、他者より優位に立ちたいという野心が、回り回って自分たちの首を絞める流れは非常に身に覚えのある話で、身につまされる思いでした。
ただ、このエピソードの中で共通認識として、「“でも”コーヒーは美味い」といった台詞が出てきます。
ここに希望的な萌芽が内包されているように感じて、対立や競争はありつつも、美しいものや美味しいもの(ひいては、絶対的な価値のあるもの)は共有できるのだ、まだ人間も捨てたものではないと、語ってきてくれているのではと解釈しました。
そして、4エピソード目の「それは命取り」では、お金をせびってくる孫と祖父の姿と、その様子を見ている祖父の友人の様子が映し出されていました。
このエピソードは、自分の「好き」を曲げないこと、根源的に抱えるエゴのようなものが描かれていると考えており、その悪い面を理解しつつも逃れられない、人間の弱さが痛いほど伝わってくるようでした。
5エピソード目の「ルネ」では、カフェの店員の過剰な接客に迷惑を蒙っている女性の話が展開されていました。
一見物静かな女性が、優雅なカフェでの一時を楽しんでいるように見えますが、よくよく見てみると銃の本を読んでいるというギャップが怖いエピソードでもあります。
これは、端的に外見だけで人を判断することは難しいこと、無意識にバイアスをかけて物事に踏み込んでしまうことを示唆しているのだと感じました。
(無自覚な暴力性の話は、個人的にホットな話題なので、今思えば好みな内容だったと言えるかもしれません!)
6エピソード目の「問題なし」は、順調であると語りながらも、友人を呼んでコミュニケーションを取ろうとする男性の話でした。
人によって置かれている状況は、グラデーション的に違ってくると思います。
そんな中で、特に問題はないけれど、どこか心の奥底にある、地に足着いていないような不安感から、誰かと話したいと思うことはままあることでしょう。
順調である、あり続ける恐怖は、いつこの幸せが終わってしまうのか、終わってしまえばこの先どうしていけばいいのかが、具体的に見えていないから生じるのだと思います。
何かなければ会ってはいけないのか、今、実際に会えているということの意味は、その事実以上に大きなものではないかと、今の幸せについて再度考え直すきっかけをくれるような内容でした。
7エピソード目の「いとこ同士」では、久しぶりに会ういとこ同士が、近未来な内装のカフェで会話を繰り広げるものとなっていました。
ここでは、明確に貧困、裕福の対比関係が打ち出され、幸せはお金の有無ではない、もっと言えば、幸せはもっと別の軸をもって語られるものだと提示していました。
お金は所詮些細なもので、もっと本質的に大事なものがあると、一人二役で抜群の存在感を見せたケイト・ブランシェットによって、証明されるようでした。
8エピソード目の「ジャック メグにテスラコイルを見せる」では、ジャックがテスラコイルについて意気揚々と語る中、使用を始めると故障してしまい、一緒に来ていたメグや店員を巻き込んであたふたするといった内容となっていました。
このエピソードは作品単位で重要なパートであり、端的にテーマ性に直結するワードが登場していました。
それが、「“地球は1つの共鳴伝導体”か」という、メグの放つ最後の台詞です。
地球上にいる生き物、代表して人間を例に挙げますが、この地上に立つ人間は皆、同じである、つまりは良いも悪いもすべて共通していて、だからこそミスしたっていいし、誰かの成功を喜び合うことだってしていいと、両手を広げて語ってくれているように感じました。(このエピソード内では、負の面が強調されるかたちでしたね)
この一言が、最後の11エピソード目でも重要になってきますので、ぜひ覚えておいて下さい!
9エピソード目の「いとこ同士?」では、売れていない俳優が、売れている俳優に「いとこ」であるという関係性だけを武器に、一緒に作品を作ることを提案する話が展開されました。
これは、7エピソード目の「いとこ同士」の響きとして受け取ることができ、にっちもさっちもいかない中での幸せの追求をしていて、僅かだったとしても見つけてしまった光明にしがむ姿は、胸に迫る切なさを感じました。(あくまで明るく接しているのも、泣かせるポイントです)
また、本エピソードの軸には、「愛」についての言及もあり、ニュートラルな問答の中での終着点に、予定調和ながら幸せの実現の難しさを思い知らされるようでした。
無理に話を進めたことで、とどのつまり何も得られずに終わるというのも、道理が通っていて良かったです。
10エピソード目の「幻覚」では、医療行為と音楽の両方しているという男性が、待っていた男性の元に遅れてやって来たところから始まり、そこにビル・マーレイが店員として登場するといった内容となっていました。
このエピソードが、本作の問題点の代表的な内容を有しているのですが、その点は後で記させて頂きます。
そして、精神性の部分では、これまで嫌というほど描写されてきたコーヒー、ひいてはカフェインの功罪について触れてきています。
ここで、コーヒーとタバコが象徴するものが、何であるかも示しておきたいと思います。
まずは、各エピソードにて登場する2人1組(もしくは、2人と1人)の人物たちの関係性が挙げられます。
どちらがコーヒーで、どちらがタバコかは様々考えられそうですが、二項対立的にそれらが意味付けされている訳ではないため、それぞれで流動的に変わっていきます。
ここでは詳しく当てはめていくことはしませんが、理解して頂けるとありがたいです。
他にも嗜好品、つまりは幸せの象徴、2つ並べることによるコンビネーションの効果が示唆されているように感じました。
それだけでは成立せず、だがそれらがあると人間は幸せを覚える、なくてはならない訳ではないが、人生を考えるうえでは重要な潤滑剤となるのだと、コーヒーとタバコが全てのエピソードをつなぐモチーフとして用いることで示したのだと考えました。
話を戻しますが、10エピソード目でそのうちの1つの功罪に触れることによって、絶対的な崇拝をしている訳ではないことを、コメディ的な運動を担保しながら、観客に伝えたのだと解釈しました。
最後に、11エピソード目の「シャンパン」では、高齢の男性2人が雑談をし、やがて一方が眠りにつくといった内容となっていました。
このエピソードがあることによって、この作品は1つの作品として、ただの一端のオムニバス作品では片付けられなくなったと考えています。
辿り着く議論は、散々語られてきた人間の幸せ、在り方の先、「人生」の捉え方であり、コーヒー(タバコ)を身体に取り入れ、1度は不味いとしながらも「絶品だな」と肯定する、翻って、ままならない「人生」を肯定する流れは、ここまでで人間の杜撰さであったり、不完全さであったりを示してきた中で、最後の最後でこのように認めてくれる優しさに強い感銘を受けました。
コーヒーをシャンパンにするという考え方や、テスラコイルによって導かれた、人間は皆同じであるという考え方等々、これまでの話の本質をさらいつつ、1つの作品として成立させるジム・ジャームッシュの手腕に、ただただ脱帽させられるばかりでした。
さて、全11篇のエピソードについて、簡単なあらすじと解釈を書き記させて頂きましたが、いかがだったでしょうか?
ぜひ自分の意見がある方がいましたら、同意するもしないも自由ですので、コメント欄に書き込んで頂けると嬉しいです。
一旦のまとめをした後で、気になった点を書き連ねていきます。
長くなってしまい、すみませんでした。
総じて、ウィットに富んだ会話劇、お洒落な映像に込められた、ままならない「人生」の肯定に感動させられる良作でした!
※以降は気になった箇所について、軽く論じるパートとなります。
気になる方のみ読んで頂ければ幸いです。
全部で2つあります。
1つは、内輪ノリ的な描写が多い点です。
本作は、ほぼ全編に渡って俳優が俳優本人(ミュージシャンもミュージシャン本人)として登場します。
そのため、その俳優(ミュージシャン)の背景情報をフリにしたボケであったり、描写であったりが数多く展開されていきます。
エピソードによってはその引き、フックを味としたものもあったため、特定のエピソードに関しては言いたいであろうことのみに着目するようなかたちで解釈することとなりました。
本来、そういった見方は不健全ですし、推奨されるべきものではありません。
よって、以上の観点による減点は大きなものでした。
もう1つは、冗長に感じる瞬間が何度もあった点です。
本作は、1篇1篇は短いながらも全11篇ものエピソードが連なって1本の作品となるオムニバス形式の作品です。(コーヒーとタバコという共通モチーフが使われつつも、それぞれのエピソードは独立したものです)
かつ、お洒落映画としての側面を強める、モノクロの画面で展開されていくこともあって、どうにも画面映え的なカットが固定化していった印象がありました。
加えて、カフェやレストラン、テーブルを囲んでの室内、固定カメラしかないため、映像の運動としては非常に単調なもので、そういった面から考えても、後半に進むにつれて退屈に感じることが多くなるのも無理はなかったかと思います。
上記の2点はテーマ性、精神性の面で強く共感しても飲み込めない部分でした。
他にも気になる点があった方は、コメントしていって下さい。
コメントはすべて読み、可能な限り返信していく所存です。
何卒よろしくお願いします!
(あまりに変な意見、コメントとして如何なものかと感じてしまったものは削除する可能性もありますが、ご容赦下さい!)