レインウォッチャー

8 1/2のレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

8 1/2(1963年製作の映画)
5.0
この作品を映画館で観るのが、ちょっとした夢だった。
それは映画史上指折りのクラシックであるから、というだけでなく、こんなに万人に届く「映画」な映画が他にあろうか、と思えるからだ。

140分としっかりめの尺だけれど、ストーリーはといえば
「映画が作れないよう、どうしよう」
だけだ。

大スランプ中の映画監督グイド(マルチェロ・マストロヤンニ)が、プロデューサーや脚本家、記者にスタッフ…から逃げ回る。
温泉地に静養に来たはいいが何処にいても誰かが自分を知っていて顔を指し、とりあえず愛人や妻を側に呼んでみるものの、心は休まらず過去の想い出にばかりあそんでしまう。

言うまでもなくこれは作家フェリーニ自身の姿であり、「作れない」ことをそのまま映画にしてしまった…というある意味コロ卵な作品でもある。
このなんとも情けない袋小路の悪あがきを、自分勝手の不幸気取りで鼻持ちならない、ととるか、なんかカワイイ、ととるか。

さてわたしはといえば、「…かっこいい」と思ってしまうのだった。
だってこの開き直り!喜劇!泣き笑い、一生に一度しか切れないカード。

悔しいかな、その結果残った映像はどれもこれもバッキバキに極まり尽くしているのだ。
グイドが逃避する記憶や妄想の小部屋、昼や夜を過ごす観光客を舐めていく姿。優柔不断な七転八倒は一片ずつ映像に昇華され、モノクロに綴じられた世界の中で、黒は深く息をし、白は陽をほしいままに輝いているよ。

教会の偉い爺さんが風呂に入ってる、というだけの絵をなぜここまで極められるのか。
こんなのそりゃあ誰もが拝借するだろう。ヒップホップにおけるジェームス・ブラウンばりに、今でも数多の映画に流れる血に混ざっている。

この説得力が、この作品を、つまりは彼自身を何よりも映画たらしめている。
どんなに嫌気がさそうとも、切り売りした自らの肉片すらどこまでも映画なのであるという、遠回しで面倒くさい宣言、讃歌、恋文。作り手の一部が表現されるのが映画であるなら、こんなに純度の高い作品も珍しい。

しかし、じゃあ単なる天才の私小説なのか?といえば、否だ。

ここでタイトルに戻ってみたい。
『8 1/2』、この暗号めいた題は実はなんてこともない、ただの作品番号といわれている。しかし結果としては、これ以上の題はなかったと思う。

8と9のあいだ、それはたったの一歩なのに、底なしの谷が広がっている。
それはきっと、はじめと終わりの間。子供と大人の間。夜と朝の間。あらゆるわたしたちが嵌りこんでいる、生と死の間。

何か真に納得いく「結果」を残して死ぬ人が、この世に果たしてどれだけいるだろう。いや、後になってどんな天才や偉人と呼ばれる人も、過程の中に生まれて過程の中で死ぬのだ。劇中で、大層な時間と金をかけて作られたロケットも所詮はハリボテで、飛び立つ姿を見ることはなかったように。

グイドのあがきは、わたしたちの「狭間の生」そのものだ。
夜になれば過去の失敗ばかり思い出して、わああっと叫んで泣きたくなる。と思えば、過去から今度はちっぽけな成功体験を引っ張ってきて、大丈夫大丈夫と慰める。
自分のことなんて誰も好きじゃない、いやそれでも一人くらいは、と巡り巡る気持ち。

死ぬのは痛そうだから厭だけれど、できればこのまま朝が来なければいい…
そんな時間を一度でも過ごしたことがあるのなら、この映画はあなたの代わりに大いに悩んでくれていることに気がつくと思う。

そして、8よりも9よりも、この愛すべき1/2が後世に残っている事実。
このことはどれほどの勇気になるだろう。あらゆる人生が、芸術が、いまこの瞬間も「狭間」の無数の目盛りの中で生まれては消え、背比べを繰り返しているのだから。

今作は身勝手なようでいて、登場する誰もに(想い出の中も現在も隔てなく)お礼を言ってまわっているようでもある。ひとりひとりの柔らかい表情をとらえる視線は暖かいし、この作品といえば、の語種でもあるラストシーンでは皆と手を取り合って壇上に上げてしまう。

あなたもこの映画を観たのなら、いつかどこかで踊りましょう。同じ夜を、わたしも知っています。9は遠くても、1/2までなら一緒にがんばれるかも。

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唯一欠点があるとすれば、マストロヤンニがイケメンすぎるということだろうか。
あんたが許されるのはその甘口のツラのせいちゃうんか、とか僻んじゃうからね。