ろく

(本)噂のストリッパーのろくのレビュー・感想・評価

(本)噂のストリッパー(1982年製作の映画)
3.5
森田芳光の初期作を。

「伊豆の踊子」はノマドである遊興民と将来を嘱望された学生と言う「相容れない」二人だからこそ名作になったと思っている。

この映画でもそう。主役のグロリア(岡本)は決して「こちら側」には来ない女だ。人は「来ない」からこそ羨望がある。その羨望がそのまま「こちら側」の宮脇の増幅される。物語は散漫ながら(そもそも森田芳光映画が散漫なんだ!)その両者の絶妙な感覚で見せてくれる。

ストリッパーのグロリアはいつも「自分を見せない」。いや「こうあるべき」はたまに見せるのだけど、それは「向こう側」でだけだ。彼女は自分で「こちら側」に行こうとしない。まるで世界はそのまま二分のされ、彼女は(まるで義務のように)自分の居場所に佇む。

ここら辺がテーマだと思うがそもそも「向こう側」から「こちら側」に行くのは簡単なはずなんだ。でもそれを皆しない。そこにあるのは決して渡ってはいけないと言う錯誤だ。だからいつまでも「交わらない」。この作品でもグロリアと岡本はいつまでも交わらない。最後交わるのはまな板本番ショーだけだ。岡本が必死になってグロリアと語ろうとするけど彼女はそれを虚空を観て眺めるだけだ。そして彼女は次の本番の相手と一緒になる。この「交わらなさ」は森田芳光が一貫して追ってきたテーマだ。人間はそんなに簡単に「他者」を理解できない(あるいは他者と心が繋がらない)。だからこそ他者を求める。それでも決してわかることは出来ないしわかりたくもない。孤独なんだ。でも孤独を理解するからこそ森田映画では人が輝く。

森田映画ならではの「明るさ」はそれを増幅する触媒だ。ストリップシーンはどれも明るく楽しそうだが決して彼女たちは目が笑ってない。「向こう側」と「こちら側」はそのまま舞台と客席で断絶させられる。「向こう」は見ている分には明るいが、決して「こちら側」には浸食しない。もう一度言う。

「向こう側」と「こちら側」は交わらない。
ろく

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