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ブタがいた教室のはのレビュー・感想・評価

ブタがいた教室(2008年製作の映画)
1.1
率直に言ってこの教師に対しては「死ね」という感想を持っている。

まず前提として間違っている選択肢のみを与えて、その中で論議させあたかも自分たちの意思であるように錯覚させ責任を負わせ、制限時間を設けて「決断」させる。
この手口を見たとき、自分の頭に真っ先に浮かんだのは、北九州監禁殺人事件で行われたマインドコントロールだった。

これを観て好意的な感想を持っているひとたちは何を考えているのだろうか?
「殺して食うか、じゃなければどうするか」などという問題は初めから考える必要がない。
至極真っ当な考え方としては、「ペットは食わない」以外の答えはないはずである。
「ペットを食う」選択肢が普通の精神の現代人に現れる場合があるとしたら、遭難や災害時の極限状態のみだろう。
(その状況でさえ、自分は死んでもペットだけは、と思う人間さえ居ると思う)
つまりこの教師は、罪もない児童に対し、体験する必要がない極限状態を体験させているといえる。
どのような権利から、幼い子供にそのような苦痛を与えるのだろう?

生命のありがたみをわからせたいのであれば、単に畜産の実態を授業で取り上げるなり、見学なりに行けばいい。
まさかペットとして接していた動物を食肉センターに送るという異常な体験がなければ、命の尊さがわからない、とでもいうのだろうか?
畜産が始まったその時から、食肉用の家畜をペットと同様に扱うようなことを人類はしていない。


突然断りもなく連れて来られた豚を、殺して食うか、そうでなければどうするかの二択を迫られた場合、大人であれば「関わらない」という当然の反応を返すだろう。
しかしこの映画では、被害者は子供である。
精神的に未成熟な事に加え、自力で状況を覆す術を持っていない。
もしも自分が子供としてこの被害を受けた児童の中に居たとしたら、なにがあっても断固として殺させない主張をするだろう。
しかし結局は、「多数決」によって、「自分たちで決めた選択」を押し付けられ、それに従わされるのだろう。
自分は「絶対に嫌」だと拒否しかしていないにも関わらず、である。
同じように考えた子供がその場に居なかったと、果たして本当に断言できるだろうか?
「絶対に嫌」なことを「自分も一緒に決めた」として強要されることは、食肉云々を超えて、児童の尊厳自体の蹂躙である。
そのような「教育」が許されていいのだろうか?

自分的には、嗜虐趣味の変態が、立場を利用して自分の嗜虐心を満たす話にしか見えなかった。

もう一度率直に言うと、自分はこの教師に対して「死ね」という感想を持っている。
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