【美の極地の話】
『ベニスに死す』観ました。
本日は師匠の師匠にあたる淀川長治先生のお誕生日。
華やかで美しい映画を観ようと選んだ作品は、淀川先生お気に入りの一本。
淀川先生が「映画のダイヤモンド」と讃えられたという名作。
1911年、療養のためベニスに訪れた老作曲家のアッシェンバッハ。
彼は宿泊先のホテルで美少年のタジオを見かけ、心を奪われる。
マーラーの交響曲第5番第4楽章アダージェット。
ベニスの魅惑的な街並み。
夏の暑さを遠目に見つめる可憐な花々。
美術館に足を踏み入れたと勘違いさせるありとあらゆるファクター。
芸術に包まれた映画の世界でも、彼の美しさは際立っていた。
思わず息を呑んだ。
主人公だけではない、彼を目にした誰もが陶酔するだろう。
時が止まったように感じるだろう。
アッシェンバッハは墜落した。
恋に堕ちたのだ。
本当に美しいものと出会ってしまったとき、人は喜びよりも戸惑い、苦しみのほうが勝ってしまうのかもしれない。
アッシェンバッハは芸術家として今まで積み上げてきた美の概念を崩され、理念も感覚も信じられなくなり、悶え苦しむ。
美というものは残酷だ。
出会うたびに自分の美が裏切られるとわかっていながら、それでももう一度だけ目にしたいと願ってしまう。縋ってしまう。
言葉を寄せつけぬ美しさ。
とうとうアッシェンバッハは、タジオに対して一度も「美しい」と言わなかった。言えなかった。
それが、この映画の美しさだった。
ダジオが弾いた「エリーゼのために」が引き金となり、疫病が蔓延するとともにアッシェンバッハの体は蝕まれ、魂は肉体を海辺へと導く。
渚でたたずむタジオを映し出したラストシーン。
間に合わなかった。
優雅。
取り戻せなかった。
若さ。
敵わなかった。
純潔。
自分を置き去りにした光こそ、尊く、眩しい。
手を伸ばした。
すくい上げてほしかったからではない。
ただ、触れていたかった。
永遠に、触れていたかった。
写実的で猟奇的で絶対的な美の極地。
これが、美の哲学書。