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シシリーの黒い霧のニューランドのレビュー・感想・評価

シシリーの黒い霧(1962年製作の映画)
4.6
☑️『シシリーの黒い霧』及び『GRABICHE』▶️▶️
分析的・啓蒙的な社会派ならぬ、政治映画と呼ばれるは、創り手・語り手に何らかの党派性を感じさせる。歪んだ・或いは狭い拘りを外したナショナリスト。特定の地域に密着することで、突き抜けたレベルを獲得する。それが教条的・固定的にならずに、観る側にとっても、何らかの現状の突破口になる。が、政治映画の時代は、1作家にとっても限られた期間であることが多い。その間だけでも、一見プロパカンダを契機に、その足掛かりの遥か遠くまで連れて行ってくれた作家たちがいる。
私自身は呑気なノンポリだが、分析にできない泥沼の現状を見つめ直す、内なる力の在りかを与えてくれた映画作家たちを、幾人か挙げられる。欧州・中近東に限ると、ランズマン、ゴダール、ヴェルトフ、イヴェンス、マルケル、ギュネイ、ギタイ、クルーゲ。ガブラスやポンテコルヴォ・アキンらは微妙に違う気がするが、何よりこのロージ。私が一番関心があった頃は、国際石油資本と闘った『黒い砂漠』、伊共産党の存在が溶けゆく『ローマに散る』といった社会・世界の歪みにきわめて挑戦的だった時期(謎が解決され尽くされない事自体の力)で、その後『エボリ』以降は誰にも広く確実に伝わる骨太の、よりポピュラーな名匠となった。しかし、最も高名な作品は、初期の出世作たる本作にあることはずっと変わりない。確か佐藤忠男さんは年間最高作としていたし、大学でO・ストーン等に映画史を教えてたスコセッシも、『~ケーン』『8 1/2』『捜索者』『赤い靴』『山猫』という史上の最重要作に次ぐ地位の数本に、溝口・ヒッチ・ルノワールらと共に並べていた。私といえば、公開から10数年後に観たが、極度に翻訳字幕が少なく未訳の所も多いプリントで、絵の迫力はわかっても、内容的総体的評価は長く保留の侭だった。
それが2、3年前よりのNHK・BSでの、日本では名前だけ知られてる作、劣化していた名画の復元版がある程度纏めて紹介されるようになり、その中に2013年修復の本作があった。台詞が殆ど訳されても内容がスッキリ分かった訳でもない。中盤の’47の自治も認められ盛上るシチリア初の州議会選挙で勝利した人民連合(共産党系)のメーデー集会への、不意の銃撃・(民衆含む)大量虐殺の唯一的スペクタクルをほぼ真ん中に置き・その首謀者やバックを洗い出していくのに、タイトルロール(邦題は清張からあやかり?)の襲撃実行犯の中心と思われる山賊の長にして、第二次大戦後も共産党が分離しての独立軍としてシチリア独立闘争を続けた、政治犯・山賊を吸収しての「独立義勇軍」が各地で政府軍に屈してく中での最後の砦的1村の支配者、サルヴァトーレ・ジュリアーノの直接描かれぬ殺害の真実とその周辺も、描かれてゆく。民衆・地主・山賊・マフィア・警察・憲兵隊・司法・政府・共産党の動向・駆引き・暗躍・策謀・感情と併行・強く絡ませつつ、前半はその1村を中心とした抑圧と抵抗の気運の外形・実態、後半は裁判法廷を中心にして出口のない内的な真実の希求の経緯を見せてゆく(結局「先生」なるジュリアーノの真実を託したメモの、謎の最終授受者の存在に行き着くだけだが)。ジュリアーノは独立の闘いが弱体化し・変質してく中で、マフィアに保護してもらう見返りに誘拐・強盗等にシフト・堕落していったのか、(日和見で・決定的にも見離した党系はともかく)基盤たる民衆を本当に殺戮したのか、そこには憲兵隊や検事総長との距離の縮まり・結託があったのか、彼の本当の願い・望みはそれらとは別にあったのか、彼が権力側に対して握っていたという「弱味」とは。彼を殺害したのは知り得ない情報を得た警察との銃撃戦によるものか、彼を殺したと裁判中に証言した山賊のNo.2による独立闘争を忘れたことへの怒りの為なのか、あるいはその男の憲兵隊との接近・癒着の結果によるものなのか。全ては断片が示されるだけだが、ジュリアーノが遺したものなのか、民衆・農民自身の「沈黙」を守る下でのうごめき・社会への可変力は画面に活き続け、それへの収奪・支配層の暗躍が益々錯綜・絡まり強まるが実感として見えてくる。
反スター・反俳優の徹底による匿名的存在が埋め尽くす緩み無さ、動き反応と高度測量と直感による時と空間の熱を帯びた引継ぎ、論理積上げの独自密度と比例しての理性による真実への遠ざかりが、自然で紛い物のない緊張と命の実現へ向かう不断の意志を産んでゆく。この、あからさまな美学や拠り所を拒否した人間の浮き上がらぬ知性・生理の徹底と、その困難を嘆かず訴えず、そのままの覚めた冷徹さ・軽みで鋭利に描ききったは、唯一増村の作風、とくにそのモノクロ作品を想い起こす。
自然も街も、岩や土や白壁・屋根・路地も、対照・対比はなく同じく人を活かし追い詰める切立ち方・伸ばすものを持ち・示して囲み、村から連行され・またはそれを追う人間はカット内で次々建家から公道に場をパンするを繰返す度に個人から群の列の形成を重ねる・その増感自体の説明できぬ力。元よりの多数の退き図では生来の配置や動きかたのバランスを既に造っていて、近づきめの図では不可思議な特定できぬ他者の背や開閉戸の存在越しに多くは存在してる。人は見栄を張ることすら、外形的には悦に浸れぬ。
明晰さを貫く大胆さ・意志の力がそのまま不可解さと同質化してゆく。あるリズムを持つ映像スタイルがあるわけではなく、現実がより現実として無駄・飾りのない形で色々様相を変えても、まったく同じ本質が現れ繋げられてく。それをこそリアリズムと呼ぶべきなのかも分からないが、より剥き出しでより形に収まらない、しかし、一貫した力・生命・群像の内的ひしめきの固有性がありつづける。前触れない瞬時の短いズーム・寄ってく移動、パノラマという言葉に相応しい視界の光景的パン、手持ちでぶれつつも一体化して隙間や美学のないフォロー移動、望遠的接写の侭での被写体の触るような捉え尽し。望遠の重ねも、列の動き捉えのどんでんも、弛緩はなく同質の熱度。俯瞰ひきめの囲む人群の図でもまたファショナブルやリズムの弛緩ではなく、客観多角を高めるだけだ。そして、不気味でもあるが溶け込んで差異を打ち消し、全て現在に地続きとなって、内より強めてる響くだけの音楽・ナレーション・戦後15年の時制入り来り行き戻りが、固めてゆく。銃撃やその閃光、マスによる自らの生存への動き、仲介者のはたらきと彼ら自身の色合いの変化、全てが同ウエイトの世界と人間の必死の本能と少しでも上を見んとする理想の存在の生残りを、示し証してゆく。
先に分けた階層・組織は、線引きや線結びが出来ず、完全な独立・自由は、そして真実も、未来への主観的希望の中にしか存在せず、グループ間の部分的重なりによって、生活や屈折に対する糧を得てる。この痛ましいまでの強い何かは、1民族・近接民族、同志・微妙な序列下の者、その間のその微細な価値観のズレ、実際に生産・生活の担い手と・それへの理想掲げた圧制者やリーダー、の間の内輪の些末の利得・自惚れから、起こってる。個人の足だけでは誰も歩行できぬ、封建制・集権国家の染み込んだ世界・社会が現出し、今も尚呼吸し、迫り問うてくる。
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あと、更に遡っての巨匠として、シネマテークの配信で、フェデーの、’26作を観る(サイレントながら中間字幕も無学な私は全く読めないが)。貧しく歪みがちも、気位と見透すしなやかさを持つ、浮浪児同然の少年が偶然から、複数の裕福~中流家庭、主として2人の女の世話になるを往き来し(F・ロゼーの有名になる前の主演が、やはり既にして嫌みのない貫録・味わいがある)、それぞれの出逢い等多様回想挿入も、内容が都合でいろいろに変化し、フェデーには珍しいホン・サンス的主観が客観を自由に曲げかねないコメディ。しかし、視界の動きと一致した移動・パンカットを交えつつ、寄り・退きカット切替え、仰俯瞰め加えての懐ろ、どんでん・90°変・リバースの正確さ、の組立ての万全以上に、いや、むしろ組立にある種の隙・間を置くことで、表情・感慨、生活様式(のズレ)、生活・雑踏空間、他人への追求行動、会食・行楽の悦び、を映画のスクエアさを超えて世界の見られるべき真実の姿を賤しさも豊かさの下地として表してる、既にして巨匠のような味わいはこの作家にしかなく、嘗て、我々のような製作後 20数年経って生まれた人間すらフランス映画史上の最高作の1本とためらわずしてた、完璧・芳醇・微細の時代の風俗の美と力を極めた傑作『女だけの都』(他作の骨太さからは少し異質も)すら称賛の対象から外れてきてるは悲しい事だなと思う。
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