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ジャズ・シンガーのKuutaのレビュー・感想・評価

ジャズ・シンガー(1927年製作の映画)
3.3
初のトーキー映画の題材が「ユダヤ人によるブラックフェイス(黒塗り)パフォーマンス」であることは、アメリカのエンタメ史を踏まえると非常に示唆的だ。歴史の話が多くなります。

(というのも、映画としてはちょっとテンポが悪いし、鞭打ちするお父さんはやはり許容し難いし、最後のハッピーエンドが強引すぎるのもあり、うーん、という感想。後述するリハーサルのシーンで映画が終わっていれば、だいぶ印象は変わったのだが…)

ユダヤの司祭長から歌を教わった息子が、家から逃げ出してジャズシンガーとして生計を立てる、というお話。聖と俗の対比として、宗教と娯楽、聖歌とジャズの狭間でどちらを取るか苦悩する。

ハリウッドは言うまでもないが、米国のエンタメにはユダヤ人が大きな役割を果たしてきた。

19世紀に流行した大衆演劇「ミンストレルショー」では、ブラックフェイスのユダヤ人やアイルランド人が歌や踊り、黒人のステレオタイプを揶揄するコントを披露した。貧しい白人労働者の溜飲を下げるための偏見だらけの内容であったのは事実だが、このショーは「非黒人が演じ、非黒人が楽しむ空間」という前提が演者/観客に共有されており、白人の間の「俺たちはアメリカ人だ」というアイデンティティの形成に寄与した。

また、大衆演劇が下火となりつつあった20世紀初頭には、ユダヤ系のニューヨークの音楽家集団が良質なポピュラー音楽を量産した。ティン・パン・アレーである。ミンストレルショーの伝統を引き継ぐように、彼らはブラックフェイスの代わりに、ブルースを始めとするあらゆるジャンルの音楽を吸収し、アメリカ人好みのポップスへと変換した。厳格な分業制に支えられた作品の量産システムには、ハリウッドとの類似性を見ることも出来る。

このように、ユダヤ人やアイルランド系といった白人内での被差別コミュニティが、米国内での民族性を「脱色」するために、黒人の仮面は利用されてきた。

ブラックフェイスでステージに立つ今作の主人公。歌への衝動を「太古からの民族の叫び」と呼び、ステージに立つときはジャックロビンに名前を変える。子供の頃からラグタイムに乗せてシャッフルダンスを披露し、黒人のステレオタイプの一つである、足を引きずる動作を見せている(余談だが、シャッフルを引用しつつ黒人にのし掛かる重力を解放するダンスとして、マイケルのムーンウォークは解釈できる)。

黒人が登場しない今作、黒人文化を利用して主人公がのし上がる事への疑問は残る。しかし、これがユダヤ人から見たアメリカの歴史である事も事実であり、単にキャンセルしてしまうには惜しい要素が多く含まれた作品だ。

黒から白へ、白から黒へ、反復運動の中で文化を発展させるアメリカ。その真っ只中にいる主人公が「本当の自分」に迷うというプロットも興味深いのだが、全てが良い方に転がっていく展開は、題材の裏にある重さを考えるとガッカリではある。

危篤の父を見捨ててリハーサルに臨む場面、絶望と孤独、演じる事でしか生きられないという覚悟の入り混じった歌唱は素晴らしく、ここで終わっておけば清濁合わせ呑んだ、ほろ苦い映画になったの思うのだが。結局、ジャズシンガーは神に歌う、表現行為はユダヤ人としてのアイデンティティの獲得にも繋がるのだ、というまとめには、ユダヤ人監督の理想が込められている一方で、黒人を黒人の檻に閉じ込めたままエンタメを全肯定するような、後味の悪さが残ってしまう。66点。
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