かささた

エンゼル・ハートのかささたのネタバレレビュー・内容・結末

エンゼル・ハート(1987年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

アラン・パーカーが亡くなったので追悼としてDVDでエンゼル・ハートを観ていました。
今回はネタバレありで感想を書いていきたいと思うので、この映画をまだ観ていない方やこれから観ようと思っている方は感想を読まれないことをおすすめします。

30年以上昔に初めて観て、その後もソフトはVHSで観ていた記憶があるので、とにかく何十年ぶりかです。公開されたのは1987年ですがその頃にはどんな映画にもネタバレ禁止みたいな告知はされなかったように思います。と言うかネットが無かったので観客個人が感想を発信する場所が少なくて、プロの物書きの方はもちろんネタバレなんてしなかったんですね。

この映画みたいな映画はそれまでも作られていたように思いますし、その後もたくさん作られました。今回久しぶりに観直してみて思ったのはデヴィッド・フィンチャー監督の「セブン」や「ファイト・クラブ」との類似ですが、他にも「ブレードランナー2049」なども似たような展開を取っていて、影響を与えたというよりも一種のジャンルとして定着している印象もあります。

どういうジャンルかというと、ここからがうっすらネタバレなんですが「他人事と思っていた事がすべて自分事であった」というジャンルです。
こうしたどんでん返しをテーマとして選ぶのは、それがとても普遍的なものであり、他人事を自分事として捉えることがどれだけ難しい事なのかを再確認させてくれたり、自分のしていることを自分は本当には分かっていないのではないかと疑問を投げ掛けたり、要するに自己同一性というものが言うほどは簡単ではなくてけっこう乖離しているということについて語っているのじゃないかと僕は感じました。

原作では最初から最後までニューヨークで展開される物語を監督のアラン・パーカーはわざわざ南部のルイジアナに移していますが、もちろんアラン・パーカーが南部が大好き、という事の他に、主人公のハリー・エンジェルがどんどんと異質な世界に入っていくことを強調したいが為でもあるように思いました。
キリスト教圏よりもブードゥー教の信じられている土地へ、白人よりも黒人の多い土地へ、ハリーがより疎外感を覚える異質な世界沈みこむほど、実はハリーの本質はその異質な場所に根差していることが分かる、という構成を取っています。アラン・パーカーは自己に対する疎外感を強調したかったのじゃないでしょうか。

それにしても格好いい映画です。
ロングの映像ももちろん良いのですが、寄っても良い。ライティングや構図が格好いいし俳優も格好いい。中2の頃に観ていたら狂喜していたのじゃないかと思えるくらいフェティシズムのかたまりみたいな映画です。

そしてこの後、あんまり活躍しなくなるミッキー・ロークという俳優も良いですね。女ったらしですぐに女の人を口説いてしまうのですが嫌味がない、鼻につけるヘンテコな帽子(?)という明らかに似合わないアイテムも彼が着けるとキュートですし、シワだらけの白いスーツも格好いい。こういう独特のキュートさ、セクシーさを持った俳優というのは彼の他にはなかなかいないような気がします。またそうしたミッキー・ロークの色気に対抗するために配置されたロバート・デ・ニーロもストイックな魅力を発揮していて良いですね。爪の長い手の演技を上品にこなしています。この映画を別のキャストで作るのは難しいように思いました。
かささた

かささた