ニューランド

エロス+虐殺のニューランドのレビュー・感想・評価

エロス+虐殺(1970年製作の映画)
4.9
✔️『エロス+虐殺』(1969年オリジナル版·シネマテーク仏保管·?p,1970年短縮公開版·4.8p,2005年デジタル復元準完全版·4.9p) 及び『秋津温泉』(3.6p)▶️▶️

久し振りに観たのは、流通メインの短いやつだったが、ATGのタイトルなく、割りと最近焼いたものか、独特の粒子感は残ってるも、よく目にするものより、ハイキー白とびも含め、柔らかく拡がるだけでない、締まりの力が心地いいプリントで、顔や身体の位置の画面隅寄り、枝や花や草や硝子らの前景の質感がやや鋭いポイントすら備え、フォローやスローや俯瞰·ローの見映え越えた本質的織り込み、繰返し廻る·横へ·縦の移動の懐ろ、サイズも変えての(90°)角度変やどんでんの角度、俳優演技の献身ら、とにかく一級で、その中身やスタンスを含め、『ゲーム~』『2001~』『81/2』らと並ぶ作家宇宙の頂点映画。日本映画史上なら確実、世界映画史上でも時に、トップ 10に入れた事がある。
自由·運動·社会·自我らを語り合い、恍惚と空虚、表に晒さない事での自由恋愛の現実的実現と、公正公平平等·自活のそれの隠さない姿勢、の差異が大元となり、現実的な在り方の頂点長期間持続の困難からの·現実形と、瞬間の想像力の力の他人やその思想の傘下からの脱出·自己の中の相手刺殺の、繰り広げられる魅惑と可能性が、どちらの優位かを明らかにしてゆく。1969年の、男女学生2人の歴史メディア研究と·性と売春絡み現代モラル生き抜きと、1913~16~23年の伊藤野枝を中心とした青鞜社·辻潤·大杉栄·甘粕ら·特に日陰茶屋事件を軸とした社会運動の歴史と内面を探り詰めてゆく作品だが、今の若者からのアプローチは見方のひとつでしかなく、大正と昭和、劇中劇扱い部が一画面に溶け合ったりする。
完全版は現在はパリのシネマテークに納めたものだけらしいが、日本でデジタルで復元した数分短い復元版でも、かなりのオリジナル体験はできる。今回見た1時間短縮版は、どうしてもゴツゴツめフリーな壮大感に届きかねるが、それでもそのよすがは残ってはいる。
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反対に『秋津~』に関しては半世紀くらい否定的な評価できたが、今回状態のいいプリントで観て、風土を昇華純化したような、撮影と音楽の巨匠の格·引き込み力もあり、岡田と吉田コンビ第1作目であり、従来よりのオキャンとシリアス同期の松竹ヒロイン路線堅実さと、メロドラマに対して距離と批評力持った作家主導が、奇妙に組合わさってて、面白い且つ丁寧な秀作と思い、評価をあげた。ま、コアな映画ファンには否定作だろうが。
俯瞰めの退きカットで現る、同じく退きで左右に延々走り続けるヒロイン(時に縦奥通路から)、また手早く男の手を引くか·先回り機敏立回り、らの印象的カットの多用はあるが、T·マリック的な逆光やパースペクティブや解放·閉塞の併さった悠長ペースで通すかと思うと、日本敗北に対するヒロインのリアクション積みら、一般映画心理主義的矢継ぎ早カッティングも併存する。しかさ、秋津と岡山のシーンの切り替をはっきりさせず流し、世に引けめ感じうつむき·その機微に上を向き直る、曖昧な語り手を描写の表向きに置いた事は、唱和20年から37年まで、1~7年置きにスポットでしか著されぬヒロインが、娘時代は冗談としか思えなかった「(一緒に)死んで」という心の渦に次第に深く嵌まってゆくのが、横浜育ちの前半生から·秋津の温泉旅館の娘から女将になってく後半生の、風土の変化をもろに受けたせいなのか、命を助け恋心を抱くまで何故か惹かれ続ける男の、標榜する厭世感に嵌まったせいなのか、或いはその併さりのせいなのか、ミステリーで魅力的でもある世界観の不思議な存立に役立ってはいる。この映画が、少なくとも喜重の作では一般的には最も愛されてるのは、その製作のスケールと共に、複雑な製作過程が上手くはたらいたせいか。
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