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処女の泉の消費者のレビュー・感想・評価

処女の泉(1960年製作の映画)
4.2
・ジャンル
ドラマ/リベンジ/宗教

・あらすじ
裕福で新人深い家庭で愛されて育った一人娘のカーリンは冬のある日、身重の召使インゲリを伴い教会へ蝋燭の寄進へと向かった
父が無く夫もおらず蔑まれて暮らすインゲリは密かに嫉妬心からカーリンを憎んでいたがそんな事を彼女は知る由もなかった
そして道中、森が怖いとインゲリは同行を拒みだしカーリンは1人で教会へ行く事に
その中で彼女は牧夫と思しき3人の兄弟に声を掛けられ善意から弁当を振る舞う
しかし彼らは最初から彼女を襲う目的で声を掛けていたのだった
危険を感じた頃には時すでに遅し
カーリンは犯し殺され衣服を奪われてしまう
彼女を襲った3人は現場を後にし、寒さから一軒の民家へと身を寄せる
奇しくもその家はカーリン達一家の住まいだった
何も知らず彼らに施しを与える父テーレと母マレタ
だがやがて2人は一行の蛮行を知る事となり…

・感想
ウェス・クレイヴン御大の手掛けた「鮮血の美学」の元になったというイングマール・ベルイマンの作品
大筋の物語に共通する部分は多いが本作は宗教色の濃い寓話的な世界観となっている

キリスト教や神話には明るくないものの歴史上の蛮行や傲慢さはある程度知っているのでその信仰を是とした前提の元に描かれた内容には若干複雑な感情を覚えた
しかしあくまでそれを倫理や文明社会の正義を表す記号として捉えると極めて良く出来た作品だった様に思う

世間知らずで甘やかされ育った善良なクリスチャンの処女カーリン
恐らくはレイプか騙されての妊娠をしており蔑まれ、対極の扱いを受けるカーリンに憎しみを抱いていたオーディンを信仰する召使インゲリ
2人のギャップは文明社会の人間がどうあるべきなのか、という物語の根幹を予期させる物で同様の二面性が他にも随所に見られる

厳格だが娘を愛し懐かれる父テーレ
娘を甘やかすが密かに娘を巡り夫に嫉妬心を抱いていた母マレタ
共に気持ちは同じだからこそどう我が子を育てるべきかという命題が夫妻からは浮かび上がる
そしてこの夫妻と恐らくは略奪を繰り返してきたであろうカーリンを犯し殺した3人の兄弟
こちらからはキリスト教信仰の示す文明的倫理観と世捨て人達の粗野な人格
更にインゲリがオーディンに災いをカーリンにもたらす様に祈っていた事から兄弟を庇う様子も重なる事で現代と原始としてのキリスト教とペイガニズムの対比も加わってくる

社会や自然は無慈悲でどんな生き方をし、どんな服を着ようと一皮剥けば誰もが同じ人間で悲運に曝される可能性も平等
それでも与えられた物に感謝し、許しを乞い、前を向いて生きていかねばならない
こうした信条がラストにおける父テーレからは感じられる
一方でカーリンの亡骸を探す道中に映り込むカラスや否応無く兄達に従わざるを得ず犯行に加担し共に復讐の標的となってしまった兄弟の三男
それらからは生まれも死も運次第であり残酷な自然や境遇の前では信仰もまた無力なのだと主張している様にも受け取れる

細部に見られる示唆的要素も興味深い
推測にはなるが兄弟が盗み連れていたヤギは悪魔の象徴として後の“処刑”を匂わせ、パンに隠されたカエルの出現はカーリンが兄弟を“王子の生まれ変わり”と称していた事から蛙化現象の由来でもある「かえるの王さま」になぞらえ馬脚を現した彼らを象徴という事かと思う
それに加えてインゲリの“呪い”も意味しているのかな、と
後半の十字架のショットも序盤の純粋な祈祷の対象から処刑の伏線へと姿を変えている様で重たい…

二面性や人々の織りなす愛憎といった物を軸にしながらもバランスの取れた最適解などなく悲劇も幸福も人の手で選び取る事は出来ない
そんな残酷な世の理を描きつつ“許し”の象徴として亡骸の置かれた場所から泉が湧き出てそれぞれの罪悪感を抱える母マレタとインゲリが水で自らを清めるという締め括り
これは人間の弱さをも認め抱擁する愛の様でその象徴を神とする事には個人的にあまり共感出来ないものの、人生や社会との向き合い方を提示するメッセージとしてはとても美しい物だった

キリスト教信仰や映画技法に詳しい人が観ればもっと深い物があるのかもしれないけれど無知な自分でも様々な事を考えさせる力強さや繊細さが本作にはあって、「鮮血の美学」とはまた違った良さがあった
本作を元にしつつ宗教性を排した「鮮血の美学」の方が分かりやすいのは確かだけどこちらはこちらで観て良かったと思う
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