永井晶

人間蒸発の永井晶のネタバレレビュー・内容・結末

人間蒸発(1967年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

ドキュメンタリーって何だ?
フィクションってなんなんだ?
どこからドキュメンタリーで、何処からがフィクションなんだ? その境界が曖昧で非常に混乱した。
混乱の始まりはおそらく折り返しのちょっと前、今村昌平監督及びスタッフが卓を囲み会議を行なっているシーンがキッカケだ。
それまでとにかく蒸発した男、大島を追いかけてその関係者心当たりを追いかけていく「捜査物」であったが、この会議をきっかけに「情念」へ、人間の本質へと向かい始める。
その本質は本来失踪した大島の情念に決着するはずが、早川とその姉、そして姉と大島が並んで歩いていたと証言する男達の押し問答へと発展していく。
ここでセットのバラシが起こり、これはフィクションなんだという今村昌平監督の檄が飛ぶ。
自分の証言こそが真実であると疑うことなく、あるいは引っ込みがつかなくなってしまった人々の熱には、まるで「冤罪を作り出す『取り調べ』」の狭山事件の警官たちのやり取りを思い出す物だった。
狭山事件の石川一雄は警官達に折られ捏造の自白をするに至った点で大きく異なりはするものの。
主張の真実か否かよりも、都合の良い事実こそが重要であると求める人々の姿は情念の塊であり、大島の存在は彼らの心の中から再び蒸発してしまったのだと感じた。



というような事を細野辰興監督に伝えたところ笑いながら「あれはドキュメンタリーでフィクションなんだ。劇映画には脚本があるが、あの映画には脚本はない」「当時も大分問題になった作品」「あの映画は結局大島を見つけられなかった、だからあのラストに行き着いた」といった言葉を頂いた。
そもそも自分の中の前提が間違っていたのである。
昨今モキュメンタリーという言葉があるが、あれはモック・ドキュメンタリー。擬似ドキュメンタリーということである。ドキュメンタリー調ではあれど脚本がある。
ところが人間蒸発では“大島を見つけるつもりだった”のに結局見つからなかった。想定していた展開を監督たちが外されてしまったのだと。それ故に方針の転換を映像に入れ、フィクションであると叫ぶ。「保険の意味もあった」とのことであるが、万事を尽くして天命を待つを地で行った作品なのだと感じた。
永井晶

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