映画漬廃人伊波興一

こわれゆく女の映画漬廃人伊波興一のレビュー・感想・評価

こわれゆく女(1974年製作の映画)
4.6
還暦にあと一歩届かぬまま夭折したひとりの映画作家の貴重なプログラムピクチャーが静かに、だが確実に、当時まだ観ぬ観客、そして21世紀に映画作家になっていった者たちの潜在的な才能を騒がせました。
そのムーヴメントの名は『カサヴェテス・コレクション』
今から27年前、1993年の事です。

ジョン・カサヴェテス
「こわれゆく女」

公開当時に特集された6本の映画
「アメリカの影」
「オープニング・ナイト」
「フェイシズ」
「チャイニーズ・ブッキーを殺した男」
「ラブ・ストリームス」
そして
「こわれゆく女」

2020年、コロナ騒動の渦中に映画専門チャンネル(ザ・シネマ)によって、このカサヴェテス・コレクションが一挙に放映され、この上ない贅沢なステイホームを約束してくれました。

初めて観た方なら、どの一本を観ても驚かれるでしょうが最初の鑑賞で充分驚いたつもりなのに、まだ驚き足りなかった知覚体験を促す「こわれゆく女」にとりわけ惹かれます。

では今回改めて何に驚かされたのか。
それは、父役(ピーター・フォーク)と母役(ジーナ・ローランズ)の間の3人の子役たちの戯れと怯えに漂う役者としての(自覚と気配)と言うべきもの。

病名は明らかにされていませんが肉体的にも精神的にも自分を垂直に律する事の出来ない母ジーナ・ローランズがまともな子育てなど出来るわけがない。

現代で言うところのネグレクトの犠牲者のような育ち盛りの3人の子どもたちに、時には知人の子供たちが加わって、ジーナとピーターと同じ時空を共有しながら、いざという瞬間には周囲の大人たちを出し抜いたように子ども独自の身振りで孤立する。

常に誰かが身近にいる家の中なのに、気の遠くなる距離が介されたような空間で子どもたちの生々しさによって画面が一瞬ごとに活気づいていきます。

監督の指示によるものでない限り、こんな表情で画面を横切ったり、構図の中心におさまる筈がない。

どうしたら子供たちをこのように演出出来るのか?

(もしかしたら実の息子ニックも混じっているのか?まさかそんな事はあるまい。計算ではニック・カサヴェテスはこの時、既に15才の筈だから)

1分として同じ位置に落ち着けない、そんな子どもたちの動きを追い、左右に揺れるキャメラの躍動感は、カサヴェテスが被写体にキャメラを向ける瞬間をことのほか好む作家性がありありと見てとれます。

そんな事当たり前ではないか。映画監督ならすべからくキャメラで被写体を撮るのが好きに決まっている、と訝るむきもあろうが必ずしもそうではない。
例えば初期の『メメント』から最新作『テネット』までどの作品もおおむね好評で現代の旗手と評されているクリストファー・ノーランは絶対にキャメラを回すよりも撮りあげたフィルムを編集する事を遥かに好んでいるに違いないのですから。

白鳥の湖を夢想で舞うジーナを周りを素裸のまま周回したり、ピーター・フォークに誘われるまま、これが父子のコミュニケーションと言えるのか、と首を傾げたくなるぶっきらぼうな海水浴の帰途、トラックの荷台に揺られながら父の呑む缶ビールをグイグイ呷ったり、とやりたい放題の3人の子どもたちは最後には感情の行き場を失ったピーター・フォークの(殺してやる)のひとことで母を死守せんと団結します。クライマックスの行ったり来たりの階段場面はただただ圧巻の一言。

やがて皆の気が鎮まりジーナが三人の子、ひとりひとり寝かしつけながら語りかける場面から催されぬまま中途半端に終わった退院祝いのパーティーの片付けをする二人の姿に移行していきます。

キャメラは次第に遠ざかり、やがては外からカーテン越しに、2人が笑みを向けあっている姿を捉えた時、素の役者ピーターとジーナに戻った2人が、互いに労っているように見えてきます。

彼らの姿を鏡として観ている私たちの瞳を投影すれば、劇中人物と同様にもがき苦しんでいた自分が浮かんでくる。

劇中の彼らと、観ている私たち。
もはやどちらが虚像で、どちらが実像か、分からなくなってきているのです。