カラン

ニーチェの馬のカランのレビュー・感想・評価

ニーチェの馬(2011年製作の映画)
5.0
ショットの悦び。単純で原始的なものであり、ほとんどリュミエールの感じただろう悦びに近いのではないか。風が運動を止める。映画を終わらせる。焦らないで、映画の時間に身を浸して見てほしい。


タルベーラ版の『サクリファイス』といったところか。ひたすらロングテイクで、「ニーチェ」後の馬飼の老父と娘の家屋での6日間を、モノクロームで写し続ける。風の唸る音、断続的に反復されるのはヴァイオリンとチェロとオルガンだろうか。これらの楽器はミニマリストの音楽のように断片的で同じ旋律である。一種のサイコホラーでもあり、動かず喋らない2人が唐突に窓の外を凝視しだし、唸る風によって運動できなくなり、石の家に閉じ込められる映画なのだとまとめたら、少しは興味を持ってもらえるのだろうか?

ある箇所にカメラを構えると、人物がインする。しばらくして、その人物はアウトする。カメラはそのまま静止し、空間を写す。あるいは閉ざされた扉を、また、木製の食器のある長いテーブル、酒の透明な瓶。あるいはまた、火花が微かに弾けているのが見てとれる蓋を閉じた暖炉。長々と、人物がどのような場所で、何を対象にしているのかを写す。問題は、うんざりするような緩慢さでもって、リュミエール的な眼差しが捉えようとするのは、ただ茹でただけのジャガイモなのだし、何度目なのだろうか、同じ食卓で同じジャガイモがでてくる。娘はいつにもまして動か〈ない〉、老父の口からは「シャリ」という音がする、火は既に止まっているのだ。娘が運動を減らしている。馬はオープニング以降は運動せず、飼葉を食べず水も飲まない、そして、娘も食べず、静止している。老父は「食べなきゃダメだ」と、娘が馬にかけた言葉を反復する。

展開せず、拡大せず、飛躍せず、物が増えることも、言葉が流れ出すこともない。運動が止む。この映画は、物がなくなっていき、静止に向かうのである。カメラは正確である。まず馬。次に物。人間はどうなるのか?オイルランプに油が入っているのに火が灯らない闇、古家の柱木を食べているはずの木食い虫の沈黙のなか、ジャガイモを前にして人間も静止する。この静止、つまり映画の終焉を撮るために、タルベーラは執拗なロングテイクに挑むのである。

以下、予備的なことを書いておく。が、予備的なものは予備的なものであり、本質的ではない。私はこの映画を観ている時に「永遠回帰」のことはまったく思いださなかった。今、説明する段となってはじめて思い出して書いただけである。『ニーチェの馬』は、ニーチェを知らなくても楽しめる。が、知っておいても損はないだろう。




☆邦題の説明

原題を直訳すると『トリノの馬』となる。トリノとはイタリアの都市であるが、病にやられていたニーチェの療養地の一つである。『ニーチェの馬』というのは良い邦題であると思うが、ニーチェは冒頭のナレーションで、一度語られるのみで、劇中に出てくるわけではない。トリノで療養中だったニーチェは、ある日広場で動かなくなった馬が馬飼に叩かれているのを見て、馬を抱きしめて馬に何事かをつぶやいたという。何を呟いたのか、タルベーラはその点には触れない。ただ、馬がその後どうなったのかは誰も知らない、と語るのであった。

なお、ミラン・クンデラは『存在の耐えられない軽さ』の最後の章で、死に至る犬を膝に乗せた女の姿を描写しながらこの馬の話を思い出している。このニーチェが好きだ、人間たちから遠ざかり、馬に赦しを乞おうとするニーチェに共感する、と彼は書いていた。


☆ニーチェの病

哲学者のフリードリヒ・ニーチェは晩年、手紙の相手(ワーグナーの嫁のコジマ)に愛しのアリアドネ(ミノタウロスの迷宮から糸玉を引いて男を助けた女神)と呼びかけ、自分は仏陀なのだ、ディオニュソス(古代ギリシアの酩酊と豊穣の神で、アリアドネとも絡む)なのだ、十字架にかけられた男(イエスキリスト)なのだと言いだして、周囲を驚かせるようになった。こうしたニーチェの精神の著しい変質が始まったのは、馬のエピソードの頃からのようである。ミラン・クンデラは、馬に近づきながらニーチェは変わっていったのだ、としている。


☆永遠回帰

ニーチェの永遠回帰(永劫回帰とも言う)という思想は、仏教的な輪廻転生やキリスト教的な天上の来世を拒否するものである。多くの人はさまざまな問題を抱えており現世を悦び、享受することができないために、この世ではなくあの世のことを考える。したがってこれらの宗教的な現世の否定は、この世を受け入れ肯定できない弱者たちによる否定的で反動的な怨恨(ressentimentルサンチマンとフラ語的に読む)なのだとニーチェは考える。

そこで、この世を肯定し、現世を悦ぶのが永遠回帰という考え方となる。これは始原(アルケーと哲学では言い、全てのものの始まりのこと)も、終焉(テロスと哲学では言い、究極の完成、全てのもののおしまいのこと)もない。つまり、この世の肯定であり、あの世の否定である。すると、ものには始まりがないのだから、この世が存在していなかった時の起点においてこの世を創始した者、つまり神はない。また、神がこの世を創り、この世を予定調和的に終わらせることもない、つまり天国も地獄もない。しかるに、この世には始まりも終わりもなく、発展もない。この世は正確にまったくの同一物がただ反復されるだけの世界になる。

まったく同じ自分が永遠的に繰り返される人生は楽しいのであろうか?退屈に耐えられないのではないか?その通りである。そこで人はこの永遠に回帰する人生を否定する。このような自分の人生に対するルサンチマンから始まって、宗教的な現世の否定とあの世の肯定までは日本人の大半は一直線ではないと思っているし、新興宗教の大半は教祖の現世の肯定と信徒の現世の否定ではないかと考えることもできるだろうが、現世への怨恨としての反動的な発想を多くの人がしているのは否定できないのではないかと思う。

映画についてだが、永遠回帰をこの映画が映像として定着させようとしているということは、観てもらえばすぐに分かるだろう。そういう目で見れば、全てが回帰しているとも感じるだろう。


☆ニヒリズムには2種類あるのか?

始まりが見えない、すなわち、人生の終わりが見えない。この人生は苦痛に満ちている。だから、生きていたくない。あるいは、大したものではないけれど、少なくともぼちぼち幸せだ。だから死にたくはならないけど、大して面白くもないけど、といっても絶対的な真理などないのだから考える意味などないし、例えば哲学など阿呆のやることだと思考停止する。

こういう真理の不在(神なき世界)に対するネガティブな反応をニヒリズム①と呼ぼう。ところでニヒリズム②は、①とまったく同じ条件なのだが、結果としてポジティブな反応であるというところである。

しかし、①はネガティブで、②はポジティブであるのだから大いに違うのは分かるのだが、ニーチェの言う通りならば全ては永遠回帰するのではなかったか?何も変わらないということにならないのか?この辺が「永遠回帰」という概念の難しいところなのだが、おそらく問題はポジティブとは何か?ネガティブとは何かの規定が重要であるのだろう。これに関してさまざまな哲学的な読解がなされているということを注記しておく。

タルベーラはこのネガティブ/ポジティブの規定を映画のイメージで行うであろう。映画監督なのだから。

バカそうな流れ者たちが突然、襲来して、自分たちはアメリカに行く、一緒に来たいか?と問うてくる。彼らは乱暴に立ち去っていくが、聖書を置いていく。さて、この流れ者たちはニヒリズム①なのか②なのか、分かりますか?

この後、老父と娘は井戸の水が枯れて、古家を脱出しようと馬を押しながら丘を登っていく。永遠回帰よろしく、丘を戻ってくると、火がつかなくなっている。馬はそもそも食せず、虫は鳴りをひそめて、いよいよ沈黙が押し寄せて、娘はジャガイモの前で硬直する。老父も硬直する。恐ろしい映画である。完全なる永遠回帰が到来したのだろうか。さて、この老父と娘はニヒリズム①なのか、ニヒリズム②なのか?

どうぞ映画を観ながらお考えください。
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