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アニエス・Vによるジェーン・bのarchのレビュー・感想・評価

4.1
アニエスの「撮られること」への執拗さどこから来るのか。
『落穂拾い』に続いて鑑賞して感じたその問いは、本作を見ていて自然と、彼女にとって映画製作自体が「画家が肖像画を描くこと」に等しい行為なのではないだろうかという推測に行き着いた。

それは本作がアニエス・ヴァルダとシャルロット・ゲンズブールの母でもあるジェーン・Bがカメラを介して、会話を重ね、描かれる2人で1つの『アニエス・ヴァルダによるジェーンB』という肖像画のように思えたからだ。

主な構造としては画一的なドラマはなく、ジェーンとアニエスの会話の中で出てきた単語を拾い、ある一人の女性"ジェーン・B"にあらゆるシチュエーションで、あらゆる筋書きであらゆる"女性"を演じてもらうというもの。映画自体にある"誰か"に変身するという欲望や、単純な"旅"として形、そしてジャンル映画的な快楽を一人の女性の体を通して自覚的に横断していく。つまりなんと《映画》に自覚的なのかとびっくりしてしまう。
またそれは上記したようにアニエスとジェーンの会話によって進行していく。必ずしもアニエスの指示通りに進行するわけでなく、ジェーンの願望が実現されることもあるという点が面白く、カメラを挟んで両者に双方向に影響を与える"フェア"な状況が設定されるのだ。
それはカメラの存在感についても言えて、カメラ=アニエスとして常にそこにあることを明示し、時に同じフレームに映り込むのだ。
双方向的に影響し合う中で、一人の女性の考え方や夢、人生のようなものが淡々と紡がれていく。
それは劇中の女性の絵画が沢山映り、「女性は何をしているのか(考えているか)」とアニエスが疑問を投げかけた問いとも繋がるようである。

アニエスが元々カメラマンだから、なのかは定かではないが、何故ここまでカメラの手前と向こうを曖昧にしようとするのだろうか。もっと言えば主体と客体を重複させようとするのか。

アニエス自体のチャーミングさもあって、ここまでカメラの加害性が中和された感覚にさせられるのが不思議で仕方がないのだ。それはもしかしたらセルフィと自画像の差異のようなものなのかもしれない。
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