「扉の先に何があるのだろうか。」
そんな想像する他のない状況に相対した時、我々は想像を膨らませ、記憶の如き視覚的なイメージを作り上げる。それが連続性を帯びるときに《物語》となる。
そんな物理的にたどり着くことのない《目的地》を、想像で補完しその距離を埋めようとする行為を、ロードムービーという対極的な物理的に辿り着くことを目的とする物語構造と対比して描こうとする、それが本作の出発地点だ。
ただそういった紋切り型の説明で不十分なのは、物語の進展が、仮定に次ぐ仮定の上に成り立っていたり、文字情報や伝聞、録音音源という不確定要素で積み立てられていくことで、思わぬところまで行ってしまう作品だからだろう。
ロードムービーの目的である彼女の行方は、ラファエルの全く信用ならない推論か、チッチョとラウラの共有する《秘密》の重要人物であるカルメンにまつわることかで、進んでいく。
ただそう思わせて、part2の冒頭で華麗にその二者択一を吹き飛ばしてしまう。吹き飛ばす大胆さも然る事ながら、映画の中で確定されない仮定や思い込みに上に積み上げられた展開で、part1が構成されていたことに驚いてしまう。彼女の事を分かっていると確信しきっている二人の男の的外れの推論が、物語を駆動しうる事実を観客は体験するのだ。
まず初めに私が違和感を感じたのは、チッチョの回想のはずの第二章で登場するラウラが、主導権を奪うように回想を始めて第三章へ移行していくところだろう。(パンフレットにも記載があった)
回想の中で回想が始まる。更には、回想の中に、手紙や文章より推理された想像の《物語》が展開されていく。
カルメンがその教師であることも果たして確定したと言えるのか、フアナが娘だという結論は正しいのか。
この《想像》の上に《想像》を積み上げていくことで、正に妄想の類となり、このことによって、いつ壊れるのか分からない、どこに行き着くのか分からない映画体験をもたらしてくれる。
このように本作は《想像》が《想像》を呼ぶことでしか話は進まない。誰かの伝聞としての録音音源や手紙や本の書き込みから連想される状況からしか話は進まない。
つまり本作は確定した現実に到達しえない。いくら想像は発展しても証明不可能だからだ。
ラファエルもチッチョもラウラに辿り着けないように、ラウラも結局謎の生物に出くわすことが出来ないように、その「辿り着けなさ」は強い磁場として映画に存在している。だが、その「辿り着かなさ」こそがこの映画の力強さであり、
《聖域》として自由と解放をもたらす場所なのだ。
想像する他ない、ということの心地良さ、その状態の興奮をこの映画は観客に伝えようとしてくる。
同時に《想像》は時に現実を追随させると思わされた。
チッチョがpart1のラスト、ラファエルの車を盗み出してラウラを追いかけるとき、それはチッチョが口にした「ラウラに車を盗まれた」というエピソードとの反復に思えたが、言い方を変えれば物語が現実で再現されるような感覚だ。
他にも同様な想像が現実に立ち現れるような場面はあった。
印象深いのはあのキスシーンだ。2人の男女が、想像上の2人の男女と重畳された瞬間だからこそ、特別な場面である。
そして極めつけのpart2のラスト。カルメンの影を宿し、レディ・ゴディバの伝説を追うようにシネスコになった画角の中をラウラを歩いていく。
これは私を"私たち"と読み替える儀式に近しいものであり、そこは《物語》によって達成されるのだ言わんとしているかのようだった。
part1では物語だった彼女が、物語を語る側となり、最後には観客以外には認知されない物語として語られる。そしてラストには観客すらも置いてきぼりにして、知られざる物語となってしまったのだ。
この時、チッチョの最後の言葉「何故録音したのか?」を思い出す。
その問いは、「物語は語り残されるべき」という答えを自明とした問いとして作品に響く。
チッチョは録音されたラウラ以降を《想像》する他ない。
それは観客が観たシネスコのシークエンスとは異なるだろう。そして我々もラウラを見失う。ならば我々は《想像》する他ないのだ。彼女は、何をしているのかと。
我々は辿り着きようのない《想像》の旅を誘われて終わる。しかし本作を体験した我々にとってそれは、果たして喜びに満ちたものなのか、苦痛に満ちたものなのか。言うまでもないのではないのだろうか。
余談(箇条書き)
・編集が流石に一辺倒
・音楽のぶつ切りは、まるで想像が膨らみ、瞬間的に現実に引き戻される感覚を演出していて良かった
・キスシーンがラウラとチッチョの視点で、撮り方が違い、ラウラ視点だと鏡越しに取られているのが、互いの視点の置き方の差異になってて面白い。(ラウラは俯瞰的)