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アンドレイ・ルブリョフ 動乱そして沈黙(第一部) 試練そして復活(第二部)のCのネタバレレビュー・内容・結末

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このレビューはネタバレを含みます

数年前の書き散らしが出てきてほぼ覚えてないけどメモ

映画は個人的な経験のアーカイブスを刺激することでそれまでうやむやなままにしてた規範と直面させて、<これまで>の否定or肯定によって<これから>の修正or確定を迫られて、方向性が示されて霧が晴れるような体験になるか、自己否定によって弁証法的に外側に連れ出される営みだと思うんだけど、21世紀の日本で育った背景のもとでは、どうしても原罪的なモチーフの映画に個人的な経験を刺激されて規範に直面させられることはないのが惜しい。絶対者からの視線が感覚的なクオリアとして刻まれてないから。なんなら反復され尽くされた、善と愛を十分に貫徹できない宗教者の葛藤の主題にはうんざりもしちゃうし、他人の靴に足を突っ込むような感覚がある。けどそのありふれた主題に関して、ありふれた言い回しのもとで、ここまで説得力をもって迫ることができるタルコフスキーの映像技術が天才すぎる。ただ主題をもっと抽象化して、「デカい主語を背負って明示的な法に潔癖にこだわることで救済を求めるものの、不全感に右往左往してる人たち」の自覚的な浅ましさとして観ると、いかなる時代・社会にも通底する主題で、その矛盾がタルコフスキーの苦悩の根底にあるような気がする。『ストーカー』、『ノスタルジア』でもそうだったけど、いちばん信仰が厚い人たちがいちばん寂しくて、いちばん過激で、いちばん不全感を抱えてる。この作品の中でキリルは、聖なるものは「純なる簡潔」だってフェオファンに言い切ってみせたけど、つまるところ求めるものは修道院の院長の前でルブリョフじゃなくて自分を指名させること。信仰ゆえの不全感じゃなくて、不全感ゆえの信仰だってことがバレちゃう瞬間。だからこそ、フェオファンがルブリョフを選んだ後に噴き上がって、後を追いかけてきた健気で、「純なる簡潔」を象徴する具体的な存在であるワンちゃんに自分を否定された気持ちになって、ボッコボコにする。すごい作品だったけど、タルコフスキーの作品では規範に直面するような経験をすることはあんまりなさそうだから、もっとヌメヌメして、セリフが少なくて、イメージの世界にとどまり続けることのできる作品を観て、天才やなーって思いたい
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