イルーナ

劇場版ポケットモンスター 水の都の護神 ラティアスとラティオスのイルーナのネタバレレビュー・内容・結末

3.9

このレビューはネタバレを含みます

本作は歴代のポケモン映画の中でも大好きな作品の一つです。
まず、アルトマーレという舞台そのものが「真の主人公」と言っていいほどの作りこみ。ここまで異国情緒を描くことに徹した作品も珍しい。
特に「謎の少女、再び」の流れる場面は最たるものでしょう。
このエピソードは監督の「この迷路をどこまでも行けば、不思議な別の空間に出られるような気にさせられました。それは、決して不安感や恐れとかではなく、どこかワクワクするような、未知への期待や好奇心だったと思います」というヴェネツィアでの体験談通り、そうした感情を見事に表現していました。
EDの「ひとりぼっちじゃない」も、作品の展開にぴたりと当てはまる名曲でした。あのラストの直後に盛り上がるイントロ!おかげでさらに印象深くなっている。
これがきっかけでcoba氏の曲にハマったり、世界史への興味をさらに深めることができるようになりました。

さらにこの作品、メタファーがとにかく多い。
「青い水の星」のシーンはもちろん、冒頭のおとぎ話からして、「邪悪な怪物」の姿や仲間を呼びに行った兄妹の変貌と、その後の展開を暗示させてきます。主題歌「ひとりぼっちじゃない」もそう。
そういう暗喩を読み解く楽しさも、本作の魅力の一つ。
また、ラティ兄妹は変身能力や自分の見たものを相手にも伝える能力と、伝説ポケモンの中でも異色の能力の持ち主で、それら全てが本作の印象深い場面につながっている。持っている設定を全て活かし切ったのは好印象。
中でも2回目の「ゆめうつし」は難しい説明なしで差し迫った危機を伝えたという意味でアイデア賞もの。

本作は『時を超えた遭遇』に続き、ポケモンが一切喋らない作品ですが、それだけに演技が印象に残る。
例えば津波を鎮めた後のシーン。兄の末路を察してしまったラティアスの演技が素晴らしい。感情をあらわに泣きじゃくるわけでなく、淡々と抑えた演技でその事実を受け入れようとする。これってかなり高度な表現だと思いませんか?
今にも消えそうなラティオスは、少し上昇してから妹の手を離し、天に召されていく。このワンシーンに込められた情感の深さよ。
もっとも、前作が全力で感情をぶちまけていたから、そのギャップに戸惑うかもしれませんが。
ラストシーンも、まさに口がきけないからこそ成り立ったものでした。

これだけ盛りだくさんな内容ながら、上映時間はわずか70分ちょっと。
非常にテンポがいいうえ、すべてのシーンに無駄がないんですよ。
後年の作品では短編が廃止されたことで上映時間が長くなって、冗長な展開になりがちなのと対照的です。

……しかしこの作品、大好きな作品であると同時に、自分の印象と世間の印象が見事に不一致だった初めての作品でした。
観終わった後は感動というより、強烈な違和感を感じていたのですが、世間はラストシーンはどっちだったのか?の考察ばかりで、かなりの疎外感を味わいました。

その違和感の正体というのが、怪盗姉妹の妹リオンが悪用していた古代の装置。「アルトマーレを永遠に護るために作られた」と言えば聞こえはいいですが、その実態はラティ達の生命力を吸い上げる形で動かすという代物。しかも装置がある場所はあろうことか、ラティ達に感謝の気持ちを込めて建造した建物の中。
冒頭のおとぎ話では、見ず知らずの幼い兄妹(ラティ兄妹の先祖)を助けるほど情け深い老夫婦が出てくるのですが、その話のおじいさんが装置の製作に関わったことが示唆されており、この変節ぶりには一体何があったんだと愕然とするばかり。

さらに動かすのに必要なものが本作のキーアイテム、「こころのしずく」なのですが、「青い水の星」のシーンを見ればわかるように、その正体はラティの魂、犠牲の産物。
冒頭のおとぎ話で、邪悪な怪物との戦いでラティ達が「こころのしずく」を持ってきてくれたと語られますが、最初の「こころのしずく」も恐らくは……

つまり、アルトマーレはラティ達に島の危機を救ってもらいながら、生きたラティからも死んだラティからも搾取する形で平和を維持していたという、恩を仇で返す歴史を持っているんですよ。
そして悪の心に触れて破壊された「こころのしずく」には何の救いもない。正体が魂そのものであったことを考えると、当然意思もあったはず。身を捨ててアルトマーレを護り続けた結果がこれだったのかと、絶望しながら砕けていったのでしょうか……

しかも作中ではこの装置、批判されることすらないし、ラストではしれっと修復工事されている。
せめて負の歴史を伝えるために残すのであればまだ納得がいくのですが、「アルトマーレを永遠に護るために作られた」という理由を考えると、悲観的にならざるを得ない。
作品のテーマ全否定になってしまいますが、ラティオスはあの形でアルトマーレに戻ってきて、本当に正しかったのだろうか?「こころのしずく」があるということは、犠牲前提の平和を認めるということに他ならない。
ここまで来ると、おとぎ話内でやたらメタファーが盛られていたのは、絵本の作者もこの実態を快く思ってなかったのでは?と勘ぐってしまったり。

自己犠牲、無償の愛自体は物語の王道だからいいのですが、よく見るとそれだけの犠牲を払いながら、最悪の事態を凌いだだけ。根本的な問題がまったく改善されないまま、美談として終わる。
それをリアリズムと捉える人もいるかもしれませんが、これ、倫理的にどうなんだ?と、ずっと引っかかっています。

後の『超克の時空へ』で本作と正反対の結末が描かれ、『黒き(白き)英雄』ではサトシに「犠牲が必要な理想(真実)なんかいらない!」と、アルトマーレ全否定の言葉を言わせたあたり、「犠牲に依存した平和」が改善されないまま終わったのはスタッフも相当思う所があったんじゃないか……と思います。そういう意味では、後のシリーズにも大きな影響を与えた、と言えるかもしれません。

事件を引き起こした怪盗姉妹も逮捕こそされるものの、『ルギア爆誕』にて世界を破滅の危機に晒したコレクター、ジラルダンを新たなターゲットに定めるという、さらに悪化したとしか思えない終わり方。
もちろん、あっさり反省する姉妹は見たくないし、劇場版ポケモン5周年のファンサービスだというのはわかるのですが……
皮肉なことに、これらの不穏な描写が「ひとりぼっちじゃない」の歌詞のテーマを輝かせているのが、何とも。
というかあの歌のテーマが「試練に立ち向かう者へのエール」であることを考えると、こういう描き方をせざるを得なかった……?

また、ラティ兄妹は独自路線の能力を持つ一方、やたら弱さが強調されてるんですよね。
ステルス能力を対策されていたとはいえ、普通のポケモンにあっけなく負ける、ラティアスは何か能力を使うたびにへたばってしまう。
ここまで弱いと、護神としてどうなの?と思わないこともない……
サトシからの警告を受けたにもかかわらず、何の対策もしなかったカノン・ボンゴレ一族といい、劇場版ポケモンでここまで味方に恵まれなかった話も珍しい。
秘密の庭襲撃シーンは、執念深さだけでなく護神対策も抜かりなく練ってきた怪盗姉妹の有能っぷりと、護神サイドのダメダメっぷりの対比が強烈です。
一族はラティ達を心から愛し、信頼しているのは確かだけど、劇中の描写を見てるとガッツリ「依存」も入っている。ラティ達も先祖を助けてもらった恩に必要とされ続けていること、そして何よりアルトマーレへの深すぎる愛情もあるから犠牲を払い続ける。
アルトマーレとラティの関係はもはや「共依存」の域に達していると思います。
本作は「兄弟愛」と「自己犠牲」の美しい話と思われがちですが、細かい設定を見ていくと、その実態は「究極の搾取と共依存」を描いた話だったという。

とはいえ、公開から20年近く経ってもずっと語り継がれているわけで、やはり印象に残る作品なのは確かなんですよ。
私も感じた違和感を言語化しようとしてなかなか上手くいかなかったのが、ここ数年でようやく表現できるようになってきたって感じですし。
見た後何かを語らずにいられなくなる作品なのは確かです。
ぜひともリメイクが観てみたいのですが、「多くを語らず、想像に任せる」のさじ加減が絶妙すぎるから、アレンジが難しそう。古代装置関連はぜひ掘り下げてほしいのですが……

追記
アマプラで劇場版ポケモン一挙配信ということで、この作品も配信されましたが、湯山監督のインタビューがこの作品の本質を見事に表していますので引用。
「世界を支えるものは、目には見えない様々な心の形」
つまり、一連の事件が当事者以外に知られることのないまま終わったのは、まさにこの言葉の通り、「見えない所で、誰かが他者のために戦っている」ことを表現するためなんですよね……
一方で、「街は全てが人間の意志のもとに造られた、そこに住む人々の心の形」「ポケモンは子供達の夢想が具現化したひとつの心の形」という言葉と本作の設定を照らし合わせると、中々恐ろしいものがあるのですが。

https://www.tv-tokyo.co.jp/telecine/cinema/pokemon/staff.html


リバイバル上映後の追記
公開から20周年という節目の年にリバイバル上映が決定。それまで何度も人気投票で1位になっていた作品とは言え、当時シリーズで興収ワーストだった作品が再評価されて、再び大スクリーンで観られたのは感慨深いものがありました。
と同時に、ツイッターで感想を検索したら、設定のブラックさに気づいて割と真剣にアルトマーレに対して手のひら返しする人が増えてて「あの時感じた違和感は間違ってなかった」と確信しました。
当時の視聴者が大人になっただけでなく、原作の第6世代が「ポケモンの生命エネルギー利用の是非」がテーマだったからか、2010年代中期以降ようやくその辺を議論・考察する土壌が整った感じがあります。
イルーナ

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