フランスの天才詩人にして映画作家であるジャン・コクトーの『美女と野獣』。
ディズニー版とは王子が野獣になったいきさつからして違うのと、ディズニー版で物語を素敵に魅せるベルと野獣のダンスシーンがない。そもそも舞踏会のシーンからしてなかった。
しかし、1946年の作品であることを思うと、その特撮は見事で、野獣の魔法はもちろん、お城の幻想的で詩的ロマン溢れる映像は特に素晴らしい。
ベルがお父さんにお土産に1本のバラを頼んだことから、とんでもない事態になっていくが、ジャン・コクトーの『美女と野獣』のほうが、野獣とベルの父親、野獣とベルとの約束が分かりやすくて良かった。
このお話の教訓は「人は見かけでなく、心で判断せよ」ということなんだろうが、この映画ではそこを踏まえて、現実とは逆の魔法をかけている。即ち、心の美醜と顔の美醜を一致させる魔法だ。だから王子は野獣になったし、魔法の鏡に映るお姉さんたちの顔は醜かったわけだ。野獣は、自分と同じようにベルに求婚した男がおり、その男の顔が美しいとベルから聞いてしまい、相当悩み、嫉妬した。それで、野獣はその男の顔を手に入れようと企んだのだ。だから、その男の手に渡ることを見越した上で、ワザと宝物のカギをベルに渡し、彼が盗みに入るよう仕向けたのではないか。
そうであれば、全てつじつまが合う。
いずれにしろディズニー版とは全然違う。
しかし、お姉さんたちは何であんなに意地悪なのか。シンデレラどころじゃないよ。それから、兄のダメ男ぶりがあり得ない。
ベルの家族の社会的地位って、どういうものなんだろう。あんな田舎で、お金はあまりなく、しかし、使用人をもてる身分で、舞踏会までわざわざ日本の江戸時代の早籠みたいのでいくんだよね。没落貴族ってことなのか…。
今回、三回目の鑑賞だが、それにしても自分は記憶違いをしていたことに気づいた。記憶していたラストと違っていた。(^^;
魔法がとけると同時に野獣が光に包まれながら宙に上がっていき、王子となってベルのもとに降りて来て、そしてその手でベルを抱きしめると、再び宙を舞いながら上がっていく…
と思い込んでいた。(^^;
だいぶ違っていた。
なんだったんだろう、この記憶。
でも、自分の記憶違いのほうが自分的にはオススメの終わり方だ。(^O^)