みやび

イディオッツのみやびのレビュー・感想・評価

イディオッツ(1998年製作の映画)
4.3
黄金の心三部作のひとつ。ドグマ95に則って製作された本作はかなり実験的な映画ということもあり、『奇跡の海』や『ダンサーインザダーク』とはまた一味違った作風となっていた。

ストファー率いる“イディオッツ”の面々は、知的障害者のフリをして人々の反応を探る集団だった。
レストランで出会ったことをきっかけに彼らと一緒にいることに心地よさを覚えたカレンは、そのことを自問自答するのだが———

本作品は、知的障害者のフリをして人間の内側を暴こうとするイディオッツでの集団生活が、とあるメンバーの欠損から行われているであろう他メンバーたちのインタビューを通して回想されるという構造になっている。
また、「人間の内側」について作品内だけではなく観る者、つまりは私たちを巻き込んで問題定義をしているのが最大の特徴だ。

私たちは障害の有無に限らず人種や宗教様々な場面で偏見や差別に出会う。
本作では差別を目の当たりにした時、私たちは何を思うか?現実と理想はどう違うのか?といった問題提起がされていたと思う。

本作に登場するグループ“イディオッツ”は「上辺だけの偽善を振りかざす健常者」の闇を炙り出そうと、知的障害者を真似てデモンストレーションを繰り返しているのだが、彼らの根本の思想は「愚かな知的障害者は純粋無垢で素晴らしい」といったものであり、これは上辺だけの偽善なんかよりもよっぽどタチが悪く見える。
さらには障害を演じることで無銭飲食や詐欺などを働いたり、挙げ句の果てに実際の障害者の前では迷惑ばかりかける彼らに怒りを覚え、自分たちに余裕がなくなると彼らに対して差別的な暴言を吐いたりする。
彼らは自分たちの都合の良いように知的障害者を思い描き扱う。
倫理観における物差しが自らの損得でしかない、まさに上辺だけの偽善を振りかざす人間が暴かれていた。

何となくだがこのイディオッツのメンバーたちは集団帰属の欲求や、他者から注目され優しくされるという薄ペラい愛を求めていただけのように思える。
つまり「人間の内側を暴く」なんてお偉い思想も結局は、自分自身が満たされない世の中からの現実逃避の建前に過ぎないということがよくわかる。

物語の終盤でイディオッツは、現実から逃げてるだけなのか、それともこの生活を本当に求めているのかを、実際の生活基盤で知的障害者を演じることができるかでテストしていく。
愚かでいることは純粋で素晴らしいよねという思想のもと、障害者を語り演じてきた「幸せな日々」。
でも実際は誰も演じることができない。
なぜなら恥ずかしいから。現実での自らのプライド、立場や評価に傷がつくから。
次々と暴かれていく人間の内側。
見るべきものは自らにあったと気がついた時、人は本当の「愚かさ」を知る。

人は無意識のうちに何かを差別している。
それと同時に差別を自覚している。
現実と理想のギャップに苦しんだことで、彼らは仲間を作り自分たちの理想の世界で生きてしまっていた。
自覚の苦しみを他者に押し付けあって生きていた。
嘘を纏うことで、何も考えないことで現実から目を背けてしまっていた。
本当にするべきことは今ある現実に目を向け、真実を見ることではないだろうか。
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