お久しぶりのラース・フォン・トリアー監督さんです。
これずっと観たかった作品でした。
ドグマ95というラース・フォン・トリアーさんを含むメンバー数人で映画製作していくにあたり誓いを立てた10箇条がありまして、それに沿って製作されたのが本作です。
ドグマ95の分かりやすいところでいうと、スタジオセットの禁止、手持ちカメラのみでの撮影、音響は撮影現場で撮れたもののみ(劇伴なし)、監督名クレジットの禁止、、、という、制約のもと製作されています。
本作は、鑑賞する人によってはとても不快感を覚える内容ですし、トリアーさん自身意図的にそれをやっていると思うので、私は感情的な面を排除して観るようにしました。
ざっくり本作を紹介すると、知的障がい者を”演じる”集団(イディオッツ)が周囲の人々の偽善を暴こうとする物語です。
内容を聞くだけで、嫌悪感を感じる作品ですね。
このような嫌悪感ある作品を生み出し、形にしたいという発想が、トリアーさんらしいですよね。
さて私が本作を観て思ったことを少し。
・これがドグマ95か、、、
自らに制約を課し、製作された本作。
映画の表現方法って、いろんなものがあるんだなとアホみたいな感想が出てきました。
このドグマ95について、以前にあった同監督のキングダム全編一挙放映(シーズン3は観れていない!)のときに買ったパンフというか特集本みたいなやつに載っていたような気がするから引っ張りだして読まないと。
・結局はなにが愚かなのか
これは分かりません。この集団は間違いなく愚かであると感じました。
だが表面では善き人を装っているが、内面では早くどこかに行け!と思っている”一般人”も愚かであると思います。
この作品をありがたい、、と思う観客も愚かであると思います。
つまるところ、人間は愚かであるのです。
仕事の昼休憩のときは、可能な限り「テレフォン人生相談」というラジオ番組を聞くようにしているくらいに好きな番組なのですが、そのパーソナリティの加藤諦三さんが紹介していたことば「苦しみは解放と救済に通じる(アドラーのことば)」を紹介していました。
この言葉を聞いて、今作のことを思い浮かべました。
本作の主人公カレンとストファー。
この2人は明らかに苦しんでいます。それが最後のシーン(各メンバーが家族の前で障がい者を演じる。)でカレンは苦しみから解放、救済されたように見えました。
ストファーについても同様ですが、彼の場合はその”垣根”をなくすことを目的としていたように感じるので、それも一種の解放と言えるかと思います。
・カレンは何から解放されたのか?
それは”家族”だと思います。家族の呪縛から解放されたのです。
ではその解放の先には何があるのか?
家族を捨てたという新たな苦しみが生まれ、また解放すべく方法を探るではないかと思ってしまうのです。
人間は生きている限り、何かしらの苦しみと対峙していくものなのか。
トリアーさん、本当に意地悪な人ですよね。
・嫌らしいことをやるのがトリアーさん
彼の作品を観ていて思うのは、本当に嫌らしい人だなと思います。
実際に私はこの作品のテーマを聞いたとき、これは観てみたいと思いましたし、人間のクズっぷりを描いていき、どん底に落とされ、でもなんかすごいもん観たなと思う気持ちとで、綯交ぜにさせられます。
だから次も観たくなってしまうのでしょうね。
・性描写について
トリアーさん作品では"過激な"性描写が言及されるとが多いですよね。
私はトリアーさんの性描写は人間の営みであるので、全くエロスを感じません。
寧ろ性行為をすることにより、その人物によっては"救われる"こと(そのひとときであったとしても)があるような気がします。
本作では性描写について、差別的に描いてもいないし(演じていることとは別で)、そりゃ男女集団生活していたらそうなるだろ?と言わんばかりに撮っています。
どこまでいっても事実を突きつける方ですね。
お久しぶりのトリアーさんは、相変わらずのトリアーさんでした。
またトリアーさん観たい欲が溜まったら観るんだろうな。
そんなふうに思った作品でした。