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風雲金比羅山のニューランドのレビュー・感想・評価

風雲金比羅山(1950年製作の映画)
3.7
☑️『風雲金比羅山』及び『侍ニッポン』▶️▶️
大曽根を観に来たというより、チケット確保が色々絡んでこうなった感。特に『侍~』に関しては、観た知人から何部作かのダイジェストで話が繋がらず·薄っぺらく、観る価値はないと云われていた。このタイトル、伊藤大輔の高名作のリメイクとばかり思ってた私は、意表を衝かれた。
『~金比羅山』は、ありていに云えば、昨年の国内最高賞、キネ旬ベストワン『ジョーカー』と同じ位に充実した秀作。「もっと(私の事を)悪く云っておくれ」「初めて女らしい気持ちを味あわせてくれた人」「惚れぬいて苦しんでここを去った分、2人の幸せを祈ってた。が、(故)親分の恩も忘れ、あんな悪党の子分に」「このひとは、本当に弱いひと」。
終盤は、この後段々に廃れてくる、戦前からの股旅ヤクザものの、キメポーズや(共闘·表返りら)パターンいくつも、囃す音楽に高揚の竹林移動立回り、らの自然·声を懸けたくなる活き活き復古調。また、映画早創期、そして戦後解放自由を、呼び寄せるがごとき、そして臆面もなく打ち出す、しきたりを越えた人の情と理解の飛び交い、息吹の伸びやかさが魅せる。納得+捻りの見事に味ある括り。
しかし、基本的に全体の、広くしなやかに生活·空気に触れ通じ、それらにもやさしく呼吸させる、威圧感なくも仕切りなく延び拡がる感の大+ナチュラルセットと、角度がキツくなく隙間あり、詰めて切り結ばないカッティングのもたらす、俳優の目線の解放·自由な人間性が素晴らしい。音楽も限定し、何かの地方的謳い等が遠くから微かに響いてる。ロケでの群集のあり方も含め、カメラ前後移動(時にクレーン)、どんでん·切返しの整然拡がりや、寧ろ多くは空き空間自然の静謐が素晴らしい。垂直に吊るした短い竹竿や立てた網が揺らぐのも美しい。それよりも序盤の夜の雷光の背景とセット内部への射し込みの変化·呼吸感の操作が圧巻の細心高度。水面や雨の処理も美しい。
基本的な寄りの切返し·90°変が甘く、45°めが平気に割り込んで劇的集中を妨げてるが、アップをメインとした役者の目線演技を中心とした自律性が生まれてる。これらがベースとしてあったればこそ、終盤も盛り上がり得る。男と女の本質的弱さ、メソメソ感もここでは悪くない。山田や阪妻始め、役者が時代劇の枠を超えて呼吸していて、天国にでもいるようだ。革新や定番決定には至らずも、紛れもなく映画のひとつのゆきついた形だ。
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『侍~』は一編の映画として、スッキリくっきり纏まって、良く出来てたが、毒々しさはかなり薄れてるも、明らかに伊藤大輔のアナーキー·ハチャメチャに繋がり得る世界だ。「下賎の母と、父もわからぬ者と、娘は釣り合わぬ」「本当の父の名を」「自分1人では決められぬが大名の生まれ。お前もそれを分かって身を引いた。対面まで知らさず暫く待たせてくれ」「全てに何も信じられず。確かに大老は、国を護る為の開国、皆平等の世をと、立派だった。水戸藩の仲間の云う事も今では」「あいつは裏切り者ではないと俺は信じてる。しかし、大事な女を棄てる薄情は許せぬ。大事の前、生きてる内に友情失わせた奴を、俺が斬る」「平凡な父が欲しかった。なのに、母上、貴女が身勝手な判断で皆を不幸に。父は斬られる。私は生まれ来る子と妻と暮らし、係わらぬ。友情らの方が大事。···しかし、父に一言、妻子を棄てた事の悔恨を確かめたい···父上ー!」
スコープ作品で、斜め切返し受けも90°めと違和はそうなく、全てが均質に濁りなく組立てられてる。他社とのカラーの差異もそうない。その分、戦前サイレント時にはあったろう、論理の弱さをアナーキーな渦·高まりに変えてゆく、熱度は少ない。云ってる葛藤のレベル、大義や未来か·妻子や友情か、が釣り合わぬ。幕末の、彦根↔水戸の世界観を、出自知らず揺れ動く、大老の落し子。
とはいえ、やや小振りや不自由になった製作条件を感じさせない、定番も力強い·見た目隙のない、筆致やセットや俳優配置は、観てる間飽きる事はないのである。
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