藤川

ヒトラー 〜最期の12日間〜の藤川のレビュー・感想・評価

ヒトラー 〜最期の12日間〜(2004年製作の映画)
-
劇中で幾度か「国民が選び、我々に委ねた」という言葉が強調されるんですが、まさにそういうことをこの映画は言おうとしてるんだと思いましたね。
みんなで選んだんだと、みんなが夢中になっていたんだと、そしてそれは危険なことなんだと。誰か特定の人物の悪徳によって虐殺が引き起こされたんだとか、組織や構造のあり方が歪んでいたから戦争に負けたんだというような、そういう浅はかな歴史認識を戒めようとする姿勢を感じました。
以下は映画の冒頭、実在の人物である主人公の実際の回顧ですが、ナチという夢から覚めた戦後のドイツ国民の暗澹たる心情をそこに重ね合わせることもできるようになっています。
「今では私も、若くて愚かだった当時の自分に腹が立ちます。恐ろしい怪物の正体に私は気づきませんでした。ただ夢中で何も考えず、秘書の仕事を受けました。熱烈なナチではなかったし、断ることもできたはずです。しかし好奇心に突き動かされ、愚かにも飛び込みました。思いもよらぬ運命が待っているとも知らずに。とはいえ、今も自分を許せずにいます。」


一方で、「国民が選んだ」というのも一面的な見方に過ぎないという個人的な思いもあって、なぜならドイツが戦争に踏み切った動機を考えれば、WWⅠあるいはナポレオン戦争にまで原因を遡ることはできるわけで、産業革命と帝国主義に遅れをとりながら不利な経済戦争を強いられていた当時のドイツにとって、それは"選択肢"と呼べるのかどうか、と思わざるを得ない。彼らを、国力に見合わない分不相応な夢を見ようとした愚か者と断罪する資格のある者が一体どこにいるのか。マハン的、あるいはマッキンダー的な地政学の運命によって彼らはそうする以外の道を持っていなかったのではないか。ヒトラーが不徹底だったわけでも、ドイツが愚かだったのでもなく、あるいは仏英米が故意に陥れたのでもなく、プロテスタント的資本主義を追い求めた白人たちがその始まりから背負っていた宿命が必然的に辿り着いた先が二つのWWであったとすれば、"何かのファクターが違っていればまた全く別の結果になっていたかもしれない"的な省察は、また「我々が選んだのだ」的な生真面目な反省は、どこか的を外してやいまいかと思うことがある。(我が国の左巻きの方々が先の大戦を振り返る時に決まって述べる、「全体主義による抑圧が〜」とか「軍部の暴走が〜」とか「決戦ではなく協調外交で〜」とかいった指摘が、いかに表層的で、無意味で、"歴史"というものを心底不真面目かつ雑然に眼差していることを露呈するものであるかということも、申し添えておきたい)
藤川

藤川