安堂冷罵

仮面/ペルソナの安堂冷罵のネタバレレビュー・内容・結末

仮面/ペルソナ(1967年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

『ペルソナ』は、映画評論におけるエレベスト級の最高峰。仮面(ペルソナ)を被って生きる人間、アニムス、現実性と非現実性、神と人類、映画とは何かを問う映画……。

ベルイマンは、「神の沈黙」三部作の後、本業だった舞台監督に戻りますが心労を追い、長期入院していた際に、この『ペルソナ』を構想したと言います。ルター教の敬虔な家庭で育ちながらも、幼い頃から神を見限っていたと告白していたベルイマンですが、神を蜘蛛に例えながらも、『神の沈黙』シリーズでは「神とは和解した」と述べています。そんな心境の中で、この『ペルソナ』は書かれたものです。王立ドラマ劇場の監督経験があったからこそ構想が生み出されたものとも語っていますが、舞台監督については王室お墨付きであったために冒険ができず、自分の想像力を発揮できなかったと考えていたようです。複雑な『ペルソナ』は、そんな彼のクリエイティビティが爆発したものだったのでしょう。

まず、そこに光があった ―――。『ペルソナ』は、そんな聖書・創世記の一文のような映像モンタージュから始まります。モンタージュには蜘蛛の映像も含まれています。死体安置所のような場所で寝ていた少年が起き上がると、その壁にボンヤリと映し出されている女性の顔を触ろうとします。もちろん、その壁の向こうにあるかも知れない現実に触ることはできません。これは、ブレヒトの異化効果(日常を異常化させ、観衆のキャラクターへの感情移入を避けることで客観性を保つという、1930年代に始まるフォーマリズム的舞台理論)を映画に当てはめたものでしょう。

この意図的な感情移入の回避は、看護師アルマ(リヴ・ウルマン)の心の仮面が剥がされる映画の中盤(池に反射する彼女の姿の美しいショットに注目)、そしてエンディングで撮影側を撮影するという行為にも見て取ることができます。舞台演劇ではなく映画だったら、異化効果をどのように作り出されるのかをベルイマンは考えたのではないでしょうか。

女優エリザベート(ビビ・アンデショーン)が、なぜ声を出さなくなったのか。その理由については物語で述べられていませんが、チベット僧の焼死やユダヤ人迫害といったモンタージュから、現実という外的要因に絶望して沈黙することになったことが示唆されていると想像ことはできます。一方のアルマは過去の情事を滔々と告白し、人を助ける職業でありながらも人を傷付ける行動にも出るという、内的要因を抱える人間性が炙り出されています。他人を演じる女優と、他人の世話をすることで生きる看護師という、どちらも仮面を被った職業に生きる女性ですが、告白を続け懺悔するアルマに対して、言葉を発しないエリザベートの姿は、神にすがる人類と、沈黙を続ける神を擬人化したのかも知れません。

しかし、そもそもエリザベートとアルマは同一の人物ではないのかというのも、古くから映画評論では提起されてきました。この映画では、2人の顔がピカソの絵画のように重なり合うようなシーンが何度もあります。さらにベルイマンは、2人の顔をオーバーラップさせたりディゾルブさせたりという映画表現を使って、2人の同一性を高めています。

冒頭の少年は、エリザベートが女優業に専念するために預けたという、障害を持つ子供であると考えることもできますが、最初(と最後)のシーンで少年が手を差し伸べているのはアルマの顔。また、エリザベートを訪ねてきた夫も、アルマのことをエリザベートと呼びます。同じアルマのセリフが2回、リバースショットで繰り返されるという映画ならではの技法を使ったり、そもそも原題ではPersonasという複数形でないことも、そうした「人間の内面と外面、人格とアニムス(アニマ)を、2人の役者で表現する」というベルイマンの意図を感じるものです。

もちろん、この物語において2人が同じ人物であるかどうかは深い意味がありません。エリザベートは沈黙を保つ患者でありますが、精神的に徐々にアルマの上に立つ存在です。偉大なる創造主であるにも関わらず沈黙という仮面を付けて観察するばかりの神と、情事や傷害(もしくは僧の焼身自殺やユダヤなどの宗教迫害)といった行為を続けているのに、仮面を被って神にすがり続けようとする人間。神は常に人間の上にありますが、どちらも単体では存在しえないものでもあります。

アルマの過去の体験で最も他人に伝え甲斐のあるものは、ビーチでの性体験というパーソナルで他愛もないものとしか描かれていません。エリザベートの心を閉した世界の実情を、メディア(映画の中の記録映像)を通してあたかも自分の身の回りに迫っていることのように表現することと重なっているようです。エリザベートという我々の仮面には現実を遮断する強さがありましたが、アルマというもう1つのペルソナにはその勇気はありません。『ペルソナ』は最後、この物語の撮影隊を映し出し、やがて光が消えて終わります。映画とは、ありもしない人間のペルソナを作り出している非現実に過ぎないのです。
安堂冷罵

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