これはなぁ、明らかにモデルがオウム地下鉄サリン事件で。加害者らの山中での集団生活の一端、一種ロマンティックなその描き方に対して訝しく思わざるを得なかった。脚本を役者が自分の演じる部分しか知らせないという手法は、それぞれの加害者家族の埋まりはしない、お互いを知ろうとはしないその距離を生み出してはいるけれど。
事件が1995年、映画化が2001年、加害者家族は加害者とは別人格であるとはいえ、多くのいわれもなく傷つけられた被害者の側にまず目を向けていたいと思うの。なのでその悼みにも無関心さにも偽りにも、とてももやっとしたものを感じる。それは怒りにも似た。美しく残り香を見せたラストシーンへの嫌悪感。