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『四つの結婚』に投稿された感想・評価

デニロ

デニロの感想・評価

3.5
1944年製作公開。原作太宰治。脚色八木隆一郎。監督青柳信雄。入江たか子、山田五十鈴、山根寿子、高峰秀子の四姉妹。『上海の月』という成瀬巳喜男監督作品を観に行った際に同時上映された作品。

東宝映画作品で、戦時下にしてはのんびりとした作品。沼津から見える富士山はあんな感じじゃないと思うけど、まあよい。主人公は飛行機を研究する技師(河野秋武)で、友人の結納の儀を頼まれて、沼津に住む婚約者のもとにその品々を運び口上を述べる、というところから始まる。その結納は当初は別の友人(藤田進)が行う予定だったのですが、召集が来たということで、/おめでとう/ありがとう、ついては代わりをしてくれよ/、というところなのです。この辺りが戦争中ということを感じさせます。行った先には豪放な父親がいて河野秋武の磊落を気に入ってか話が弾む。そうするうちに四人姉妹が挨拶に現れて、というお話。

河野秋武の忘れ物を届けに東京の職場までやって来た入江たか子、高峰秀子に、河野秋武は飛行機の進化を説明しながら、敵を殲滅するとか、そんな話を続ける。戦意高揚の台詞を入れることに怠りなし。沼津で、長女の夫は既に他界して、次女の夫は出張中でと聞いたんだけれど、その時、河野秋武は間抜けな受け答えをしていたんですが、ふと、戦死、戦場という今の時代を思い起こし自分の不明を知り忸怩たる思いに駆られるのです。一億火の玉を思い起こさせます。

沼津で行われたその友人(江川宇礼雄)の結婚式のささやかな披露宴の最中、河野秋武のもとに母から電報が届く。ショウシュウレイジョウキタ。江川宇礼雄にそのことを告げると、/おめでとう/ありがとう/の常套句。河野秋武の様子に高峰秀子はどうしたのと問うと、出張の命令が来た、と。しばらくして出張の意味に気付くと、こんなところでつまらないお返ししないでよと、悲しみ一杯で河野秋武を責める高峰秀子。

ふたりの思いに気付いた江川宇礼雄が、どうだ、お前さえよければ俺が間に立つ、と河野秋武とその母親に告げる。息子を思う母親が息子に分からぬようにして、江川宇礼雄を拝むようにして頼み込んでいる場面は観ているこちらはもはや泣き笑い。

勇ましい台詞や、召集、戦死等々が描かれているけれど、わたしの琴線に触れたのは若い恋人たちのこころの行き交いや母親の息子を思う気持ち、そして友を気遣う友情なのです。当時の観客と同じ気持ちだったらいいな。

高峰秀子がかわいいを通り過ごして実にきれいです。

国立映画アーカイブ 返還映画コレクション(1)――第一次・劇映画篇 にて
✔️🔸『四つの結婚』(4.3) 及び🔸『上海の月』(3.4)🔸『激流』(4.1)🔸『乙女のいる基地』(3.8)▶️▶️

私生活でバタバタしてたので、本シリーズはやり過ごすつもりでいた。しかし、若い知人が半世紀に亘る上映記録を調べ上げ、実に貴重な作品が目白押しと言ってた(実際全作品に近くを繰返し観てる)ので、遅ればせながら覗くと、戦争中とは思えない、たけなわの筈(もう劣勢、終戦近くか。)の戦争は背景というより点景クラスで、屈折感まるでなく、社会に臆することなく、あからさまに人間的発現をしてる映画に出逢い、目を丸くした。
『四つ~』。取分け青柳は、昭和30年代くらいからは落ち着いてくるが、戦前·戦争中·戦後占領下構わず、すっとんきょうな世界の飛躍を表し、呆れる以上に、今も変わらず小心な、徳川江戸時代が文化はともかくすっかり日本人の心を卑屈に曲げた暗黒の影響下にある(大河はNHK·視聴者·役者を騙して、今に続く偽りの平和志向を描いたのか、時代考証が馬鹿馬鹿しくてあまり観てなかったが、気にはなってる。大河は『カムイ伝』を扱え。家康の出自は非人階級となっている。)我々を解放してくれる。特に本作は、控えめというのは形ばかりで、かなり皆無神経にあからさまに感情を表す。まるで日本安泰を謳っている、よりも世に抗すみたいに端々でゴツゴツし、主体の人間はまるで動ぜず、国を叩いてるみたいだ。岸田政権すら叩ける力がある。
カットは滑らかでもないが、明快·明確で、相手の気持ちを汲んで自己を押し殺す日本人気質とまるで違い、自分の主張を押し付け引かない。しかし、より大局に立って、あたかも折れたかの様に見せて、より広い相手の人間性を認めてる、太っ腹と意気が全編に満ちている。結納を届ける代理の代理を押し付けられる主人公(特に深い意味はなく、しょうこと無しだが、代理の決め方も思い込み)、遠路訪ねた家で、相手の娘の名も聞いてなかったをまいいかと思ってるが、四人姉妹が次々でてくる(長女は既に夫を失い、次女の夫は出征中~主人公は長期出張と当初素直に思い込む~、残りの妹2人のどちらかが新婦になるひとだ)。互いのおおらかさに、大いにうちとけ、高め合う、先方の親を含めた関係。彼なりに嫁になるひとを、自分も最も気になった人と見極めたつもりが、勘違いしてて、その人を含めた姉妹2人が偶々東京に出てきた時も、職場の航空機研究所をいきいき、忌憚なく説明してく。関係の理解は違っても益々惹かれ合う2人。本当の事がわかり、年頃の事もあり2人の縁談が進められてく。元々のカップルの結婚式も絡めて。全てが陰りや捻りなく、タッチ、対応、裏で窺っての反応、感激や酒·感情の酔い方、が正しくあるべき何かを上位に感じさせて行く。ゴツゴツ·不器用の裏で、感情と手の取合いが突っ走ってく。半ば以上、ナンセンス·コメディとしても揺るがない確度。
それは2度の、ルノワール『ピクニック』サーク『思ひ出の曲』に対抗するような、映像と身体と歓喜の、映画の力の頂点を極める表現に達する。一つは、話の決まる手応えに思わず、自転車に乗り駆け出すヒロインの、顔や身体の一部·車輪·その全体·そして横に流れてく穂らの視界への流れ出し、らが恐るべき大胆さと、高度でスピーディ·正確な接写近くフォロー技術緊張持って保つ·モンタージュで、目を丸くさせ、繰り広げられ、組み立てられてく。映画史上の表現ベスト到達点の一つ。作中人物の歓びの予感が全てを突き抜けていく。青柳は明らかにルノワールらと並んだのだ。もう一つは、また後日訪問してる主人公に、母からの手紙を通じ召集礼状が届けられ、何と反応するかと思ってると、それすら自分を別世界に進化させてく、押し出してくれる力として、1人畑へと駆け出してく。それを戸惑いながらも、懸命におってく今や新郎となってる親友。2人の走る姿の追い追われの、無心の動きが、関係性の対応など存在しないかの様に、一体のものとしてカット·繋ぎが、映画文法越えて繰り広げられる。
出征や遠隔地派遣も、重さや大義などないかのように、友·家族·男女の強い結び付きと歓びへ向かう解放の、一要素としてだけ描かれる。国民を誑かす為、いや逆の様に思えるのだ。世情や権力に、個人間で結ばる絆と高め合いに、内実は決して屈するものではない、と謳い続けてる様に思えるのだ。
’22年終盤~1年余り前、スコリモフスキー新作と青柳の初期旧作の、共に(私のスケジュールからは)一回だけの上映のバッティングがあった。迷ったが、スコリモフスキーの方を捨てた。
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こんなの、アメリカの同じ、戦争真っ只中映画を、軽々超えてる。どうなってる。アメリカよりも日本の映画の方が、この頃からして、遥かに優れてる。それに比べると、成瀬の『上海~』は以前も見たかも知れないが、あまり積極持上げるものはないが、しかし、明らかな反動性があるわけでもない。上海か、占領下の現地で、スパイ活動をしてる女の見極め。それらしいと思われた女は実は一般人で、日本語も巧みで柔和な印象の女の方がそうだった。その彼女もテロ活動による、破壊箇所に辿り着くと呆然とする。テロ活動の反社会性·撲滅すべき対象としての、明示が字幕で括られる。成瀬のタッチは、クールでスマートな、事態や要素の捉え、その組合わせがなされて、極めて有効的だが、本来の市井の細やかな味わい·それに沿うカッティングは欠く。
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が、この戦争下の、ひたすら個を殺し、巨大だが漠とした使命に身をなげうつといった、要請に立ち向かうと言うより、問題にしないように蹴散らし、その迷いなさに当局も見逃した作が、まだまだ普通(でもないだろうが)に存在してた事実に、更に驚く。
『激流』は、愛すべき人の方に控えめな表面の裏で腐心もする、高峰三枝子、色々1人思い込み掻き回すも、自分の主張や想いに忠実·積極的な、水戸光子、と主演女優2人が時局を越え、人間的魅力を発散する作で、『続·暖流』の趣きもある、映画として造型·流れが屹立してる作で、この叙情作家·反封建的映画風土作家としとこの後名をなす作家の最高作にも思える。それには主演女優2人を上回らんともす、小沢栄太郎の役柄を越えた人間的献身·主張·人間的振幅の圧倒である。
鉱山会社の有能技師が、会社と仕事の空気に意欲を失い地方行きを考えて、その元々進められていた社長の縁者との良家お嬢さんとの結婚話も残って進みもしてる中、横恋慕する·より身近で親しい飯屋の娘。お嬢さんは社長にとりなし、技師も事故と忼法で誠実しゃかりきに訴え、縮小政策だった社長を動かす。お嬢さんは自分は長期的な仲の気の置けない相手もいるせいもあるが、技師と飯屋の娘の普通に付き合いの出きる場を、再興す。
構図も、反応と打ち出し演技も、形式には堕していかないが·確実で力強いカットと移動·アングルの組立が、極めて主体的に乗り出してくる。かなり欠落してるせいもあるが、無駄がなくかつ複雑が一体のニュアンスに転じる密度と筆致を作ってる。その地·家·人間関係が、本物の重さ·存在感で存在し続け、作り物映画から気を込められる映画に届き保持し続けられてく。嘘の概念などない。
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(若い)女子の飛行場機体整備士の試験的採用を描いてる『~基地』は、機体·人々の動き·出入りの、カット尻が決して被らない様な、テキパキ·正確·濁りないフレッシュな、カット群が、只々快適だ。無理強い·脅しあげ、悲痛な覚悟や使命感など、殆ど存在せず、試しということもあるが、予定のない別れや出会い、自然な意識の流れが、生まれてく。仕事への創造的取組みは、少女(より少し上か)達の、内部の成熟から生まれてくる。いつしか、自信のなさが、やるべきことの自覚·マスターチャレンジに移行してる。カット割り·構図は、上からの倣いというより、自発的に組み上げられてく。この手応えは軍中枢にも伝わり、一年で入れ替えの計画が、更に精巧に届くと、彼女達の意もスムースに汲んで、2年制体制に進む。現実に目を背けた作り物の明るさ·濁りなさではない、戦争の現実を越えた世界に対する前向きな意欲の堀当ての反映である。しかし、未だにこれらが対アメリカ苦境時代の映画とは、すぐには信じられない。まぁ、統制も行き渡らない位に、日本の国体ボロボロの頃の作なのか(そんなことないか)。世は一面では規定できない、広く周知になってるかどうかは別にして、必ず相反する二方向の表現·反応が同時に存在してるものだ。単なる仇花とも思いたくない。政治の横槍を排し、映画的平和だけに注目する若い知人は、『東洋平和の道』とこの映画を、年間最上出逢い作としてた。
・太宰治の『佳日』が原作ということで、一応青空文庫で読んでから鑑賞した。
主人公の三島は、映画では航空研究所の技術者という設定であったが、原作では東洋美術史専門で、学問に対する自分の不真面目さをアピールすることをアイデンティティとしている節があり、自身の研究について楽しそうに語るタイプの人間ではなかった。

・映画の三島は多くの場面で豪放磊落さがみえたが、原作では終始神経質な一面をみせていた。ただ、小坂家を最初に訪れた時、足袋が脱げなくてまごつく場面は共通している。

・映画の大隅は明るく、親切な男という印象だが、原作では、恩師に「大隅君は感覚がすばらしくよいくせに、表現のひどくまずい男」と言われていた。
原作の二人の友情は、お互い素直になれない恥ずかしい雰囲気が感じられたが、映画の二人の友情は、はにかみではなく開けっぴろげなものだったように思う。

・原作では、四姉妹の結婚についてはほぼ触れられておらず、三島(作者)の語りによって大隅の豊かな人間像が表現されることに焦点があたっていたが、映画では、四姉妹との関係も詳しく描かれる。

・原作と映画の共通点としては、戦争がいよいよ危ない曲面を迎えているということ、それを予感しているのか分からないが人々の抱える不安が、ユーモアのなかにひっそりとただずんでいることにあると思った。

・映画では、三島が豪放磊落な性格であることによって、ラストの召集の際、四女に泣かれたときに吐いた台詞に重みが出たように思う。

原作の読後感はかなりすっきりとしていたが、映画の鑑賞後は哀しい余韻に包まれた。