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ロリータの遊のネタバレレビュー・内容・結末

ロリータ(1962年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

為末大がXで「多様性理解のためには自分より20歳以上若い異性の友人をつくるのが良い」とポストして凍結された日にこの映画を観た

この映画のロリータは最終的にお金をせびるので(ずっとキモかったハンバートが最後に咽び泣きながらお金を渡してただ去っていくシーンは胸を打ちすぎる)、どうしても現代の金銭が絡む事例を連想してしまうが、言うまでもなく人間関係(恋愛を含む)において"年齢の差"そのものは単なる事実でしかないはずで、為末大は別に間違ったことは言っていない。ただ、若い女性に寄ってくるおじさんに下心がまったくないことが少ないのもまた事実であると思う

りりちゃんの一連の詐欺被害があり、新宿ストーカー殺人があり、性と愛にまつわるごたごたにおいて誰が弱者で被害者なのか本当にわからない、決定し得ないことをずっと考えてしまう
選択肢を持てないことが弱さなのであれば、
孤独と性欲を抱えながら人間的魅力と性的魅力を持たない中年男性と、身体的安全を脅かされ続けながら期限つきの性的魅力のみで価値を判断される若年女性、どちらもどちら
恋愛は擬似なのに、金銭は擬似ではないことはなにかひとつの限界な気がする

そしてまた別の論点として、当然に異端の異物とされてきた同性愛者が"差別されるべきではない"とここ最近やっと認識され始めてきたように、小児性愛者が市民権を得る未来もじゅうぶんに考えられる そのとき我々は「なんと言おうと同性愛者はキモい」とのたまってしまう狭窄な老人と同じように「どう言われようと小児性愛者はキモい」と言わないでいられるだろうか?
同性愛者は「お互いが合意しているんだから外野が文句を言う筋合いはない」という観点がとり入れられて受け入れられるようになってきた、小児性愛者にはその観点を当てはめることはできない、だから小児性愛者の受容が取り上げられるときは必ず別の観点が提起されているはずで、その観点をしっかり自分は受け入れられるだろうか?
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