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サンシャイン2057のmocmoのネタバレレビュー・内容・結末

サンシャイン2057(2007年製作の映画)
4.1

このレビューはネタバレを含みます

 レンタルDVDを視聴したのでセル版の特典映像は見れていない。
 同じくダニー・ボイル監督、アレックス・ガーランド脚本、キリアン・マーフィ主演の『28日後...』はゾンビものだが、根本的には本作と作っている人が同じだなぁと感じる。極限状態では人間が一番怖い。
 最も信頼できそうな船長のカネダが真っ先に死ぬのは怖かった。カネダが灼かれるシーンは、ポータブルプレーヤーの小さな画面でも迫力を感じたが、可能なら劇場の大きなスクリーンで見て疑似体験したい。

 キリアン・マーフィは瞳が美しいと言われるが、個人的にはさほど意識して見たことがない。しかしこの作品は宇宙服の狭い窓から入る僅かな光に照らされて嫌でも彼の瞳に目がいく(嫌ではない)。太陽に神秘性を感じているようだったカネダやサール、他のクルーたち、地球で待つキャパの家族についても「太陽光を見つめる」ということに焦点が当てられているように感じた。光を見る描写にこだわりがあるからこそ、瞳の美しさが際立つキリアンが再び起用されたのだろう。

 途中、艦内で育てている植物が火災で燃え尽きてしまうが、後にその灰の中から小さな芽が出ている。この描写が特に印象に残った。任務に当たるクルーは死んでしまうけれど、それで地球にいる子供たちの未来が繋がるように。旧い太陽は死ぬけれどその中から新たな太陽が生まれるように。あの新芽はその象徴だろう。
 真田広之のインタビューによると、カットされたがカネダには仏教徒という設定があったそうだ。カネダが船長であるイカロス2号は、もしかして輪廻転生を司る存在なのではないか。
 対してイカロス1号のピンバッカーはキリスト教徒である。輪廻転生思想はなく、肉体が焼けてしまえば最後の審判の日に復活することができない。
 洋ホラーにゾンビが多く、和ホラーに幽霊が多いのは、土葬と火葬の違いが影響しているとする説がある。カネダは焼かれて死んだ。彼は火葬の文化圏の人間だからそれで良い。加減なしの太陽を浴びたピンバッカーも本来なら死ぬはずだが、彼はカネダのように火葬される訳にはいかない。だから土葬文化のマナーに則って、腐りかけの体で塵に埋もれ、最後の審判を待ち続けてきたのだろう。

 イカロスはギリシャ神話の登場人物で、蜜蝋で固めた翼により飛ぶ力を得たが、太陽に近づきすぎて蝋が溶け墜落死した。宇宙船につける名前としては不穏すぎるというのは本当にそうなのだが、そこは目をつぶることとして。
 一般的にイカロスの物語は人間の傲慢さを戒めるものと解釈されている。ピンバッカーの主張そのものである。
 一方、キャパは最終的にイカロス2号本体を捨て、切り離された核爆弾と共に太陽へ突入する。これをキャパやキャシーが夢に見たように、太陽に墜落した、ととることもできる。だが最後の最後に彼はイカロスではなくなり、イカロスには到達できなかった場所、近づくのみならず太陽に触れるところまで飛び続けたともとれる。

 そしてこの映画は、アステカ神話も参考にしている可能性がある。明らかに太陽信仰の話で複数の宗教観に触れているのに、太陽信仰といえば、のアステカ神話をスルーすることがあるだろうか?
 アステカ神話においては、世界は創造と破滅を繰り返し、都度太陽も生まれ変わる。第5の世界にはまだ太陽がなく、太陽を創るために生贄が必要となる。しかし生贄の1人(テクシステカトル)は炎の熱に怖気づき、飛び込むことができなかった。そうするうちに勇敢なもう1人(ナナワツィン)が炎に飛び込み、太陽となった。
 この話は任務を放棄したイカロス1号と完遂したイカロス2号の物語に似ている。核爆弾と共に太陽に突入し、自らも太陽の一部となるキャパはナナワツィンのようだ。
 また、これは偶然かもしれないが、「キャパ」はヒスパニック系に多い苗字であり、かつてアステカのあったメキシコとの繋がりを感じる名でもある。

 ところで、キャパのフルネームはロバート・キャパだが、この名前からは同名の写真家が連想される。写真史の中ではかなり重要な人物のようだ。私は彼については軽くググったくらいの知識しかないが、彼の"If your pictures aren't good enough, you're not close enough. (写真が良くないなら十分に近づいていないからだ)"という発言と、太陽に接近するイカロスの任務をかけているのだろうかと思った。キャパが地球に送った、「目が覚めてすばらしく美しい朝だったらそれが成功の証」というメッセージと鏡合わせのような言葉だ。

 本作において写真といえばイカロス1号に乗り込んだ際のサブリミナル的な演出だが、私はこれについて2つの可能性を考えた。
 1つは、イカロス1号の中に舞う埃は乗船していたクルーたちの成れの果てであるということを示唆している可能性。つまり「この埃は〇〇さん、こっちの埃は〇〇さん」と紹介しているということだ。サールが展望室で乗組員の遺体を発見した時、1号のクルーのうち7人の写真が1コマずつ映る。ここで映らないのはピンバッカーだけだ。(ピンバッカーの写真は他の場所で二度映る。)
 もう1つはイカロスをカメラに喩え、それを暗示した可能性。写真は光の記録だ。光はレンズを通してカメラ内部のフィルムに記録される。記録される光が太陽光、レンズは展望室の窓、イカロスがカメラ本体だとすると、展望室からそれを眺めるクルーがフィルムだろうか。さりげなく展望室の壁に焼き付いた人影も不気味だ。
 いずれにせよ、主人公が「ロバート・キャパ」だからサブリミナル効果で写真を印象付けたのだと思われる。

 ここに書いた考察がどれだけ正しいかは不明だが、「理解できないからつまらなかった」と評価してしまうにはあまりに惜しい作品だと感じる。私はわかるまで何度でも見返したい、その価値のある作品だと思う。
 キリアン・マーフィをきっかけに本作を見て気に入った人は、同様に物理学と宗教観が絡む『レッド・ライト』も見てほしい。あちらも宗教観に着目することで一段と面白く感じられる作品だが、前半と後半で雰囲気が変わったりいろいろ分かりにくいところも本作と似ている。でもどちらも私は好きだしおすすめしたい。
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