JAmmyWAng

ドッペルゲンガーのJAmmyWAngのネタバレレビュー・内容・結末

ドッペルゲンガー(2002年製作の映画)
4.7

このレビューはネタバレを含みます

意志によって動作する車椅子のロボットと、欲望によって行動するドッペルゲンガーは、詰まるところ意志/欲望による身体的延長として存在しているのだなあと。

繰り返されるドッペルゲンガーへの憎しみにも似た反発は、無意識下における究極の近親憎悪とも捉えられる一方で、ドゥルーズ=ガタリを引用すれば〈欲望は、みずからの移動を完成した後には、あの極度に悲惨な事態を味わわなくてはならないだろう。すなわち自分自身に敵対するという事態、欲望自身への敵対、良心の呵責、罪責感である〉と言い表す事も出来る。

結局この欲望それ自体であるところのドッペルゲンガーは殺害され、「俺とお前はまたひとつになる」といって神コロ様のような融合を果たすワケなんだけど、このようにして再組織化された主体は爽やかにルサンチマンを脱却し、貨幣や賞など既存の価値基準をも超越した、まるでニーチェの言う「超人」めいた性質を獲得し始めるワケです。

そうして「欲望とは欠如によって生み出される」というような、柄本明やユースケ・サンタマリアやダンカンの体現する「(既存の価値体系に即した)欠性に向かう運動としての欲望」が次々と解体されていくのだけれど、ここでまたドゥルーズ=ガタリに言わせれば〈欲望には何も欠けてはいないし、対象も欠けてはいない。欲望に欠けているのはむしろ主体であり、欲望は固定した主体を欠いているのだ。ただ抑圧によって、固定した主体が存在するだけ〉だったのだなあと感じるワケであって、あれ?これなんてアンチ・オイディプス?と拙者は思い始めてしまうのでござるよ薫殿。

と、くどくどと書き連ねてきたような一連の推移を、黒沢清は映画空間的な豊かさでもって「面白く」描いてしまうのだから、このキー坊の前では最早やすしも自らメガネを叩き割るんじゃないか。

怒鳴る男の後頭部を捉えるショットや、差し出される手のみがフレームインする構図など、表情が写し出されない事によってむしろ情感が高められていくし、終盤の超人性による立ち振る舞いもとにかく楽しい。そして何と言っても「これから始まる楽しい世界」というものを爽やかに予感させるラストに至っては、もうハッキリ言ってキー坊、最高やでしかし。
JAmmyWAng

JAmmyWAng