青乃雲

真夜中のピアニストの青乃雲のレビュー・感想・評価

真夜中のピアニスト(2005年製作の映画)
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フランス映画はどこか数学的にできていると思うことが多く、そのことを端的に示してみせたのが、フランソワ・トリュフォーだったのではないか。

そして、モチーフとしてのピアニストとバイオレンスとを、数学的に扱ってみた場合に導かれるものは、つまりは、ピアニスト=男の自意識という公式になることが『ピアニストを撃て』(1960年)には描かれていたように思う。

この『真夜中のピアニスト』についても、その公式で解けてしまうところがあり、ハーヴェイ・カイテル主演『マッド・フィンガーズ』(1978年)のリメイク作であることは、トリュフォーが『ピアニストを撃て』において、アメリカン・ノワールをモチーフとしたことに近似しているようにも思う。

原題は『De Battre Mon Coeur S'est Arrete』で、De Battre(鼓動)/Mon Coeur(俺の心臓)/S'est(それ自身)/Arrete(止める)から、直訳すれば「鼓動を俺の心臓がやめる」となるだろうか。

仲間と共に、裏世界に通じる不動産ブローカーを営んでいる28歳の青年(ロマン・デュリス)が、ピアニストであった亡き母のマネージャーと再会したのをきっかけに、くすぶった生活から抜け出すため、自身もピアニストを目指そうとする。

母親がコンサート・ピアニストという血筋に生まれ、かつてピアノを学習していたこともあるとはいえ、28歳という年齢はピアニストを目指すには明らかに遅すぎる。しかし、彼自身もそんなことは百も承知のうえで、夢中になって練習に明け暮れる。

彼には、自分は何者でもないという焦燥感と、何者にもなりたくないという厭世観とに引き裂かれた思いがあった(エレクトロ系をヘッドフォンで聴くシーンなどに描写される)。若者たちの多くが20代に味わうあの焦げつくような思い。

同じ生業(なりわい)を営む父親には、愛情とないまぜになった苛立ちを感じつつ、裏世界の暴力に飲みこまれながら、それでも彼は駆け抜けようとする。映画に描かれる街の明かりは美しく、昼の陽の光は明らかに祝福を告げている。観客の目には明らかに映っているその祝福も、彼の目には入らない。

そして、最終的に青年の思いは当然のように挫折し、その過程で出会った中国人の女性ピアニストとの関係のなかで、彼は手にできる現実を手にしていくことになる。

しかし、300年ほど前に書かれた音楽的な疾走である、バッハによる『トッカータ ホ短調 BMV914』がとてつもなく美しく響くのとは対象的に、この映画それ自身に美しさはほとんどない。

僕たちの自意識の内容それ自身には、美しさなど何ひとつとして存在しないように。鼓動だけが、残される。

★フランス
青乃雲

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