その本質的な官能は、アメリカンリアリズム(新写実主義)を代表する画家の1人である、エドワード・ホッパー(1882-1967年)の『ナイトホークス』と、同様の風景にあるのではないかと思ったことがある。
ホッパーの『ナイトホークス』によって描き出されたものが、深夜のダイナーに集う男女をモチーフとした、当時のアメリカ現代社会の姿だったなら、本作の主人公ロバート・マッコール(デンゼル・ワシントン)もまた、深夜のダイナーで読書する習慣を持っており、『ナイトホークス』と『イコライザー』のいずれにも、やむにやまれぬ孤独な影が落ちている。
描かれるアクションには、悪戦苦闘とは真逆の、文字通り瞬殺してみせる快感が強く立ち上げられている。彼はどのように動くか、何を使うかをイメージし、ストップウォッチを押す。そして、思い描いた通りに動いて見せる。敵はその通りに倒される。
けれど、そうした圧倒的な強さを前にしたとき、やがてその姿を見届ける僕たちの胸に去来するのは、むしろ倫理なのではないか。彼は、そうすることも、そうしないこともできる。では、なぜそうするのか。
たしかに、絶対的な立ち場には痛快さもある。戦後の日本で力道山のプロレスに熱狂したのは、実は食堂の女将(おかみ)さんのような人だったという話を、僕はとても愛している。そのように溜飲(りゅういん)を下げることも、エンターテイメントの醍醐味ではある。
それにも関わらず、この映画の後味として僕に残るものは、ロバート・マッコールとして造形された男の、倫理的な虚像としての哀しみのようなものだった。
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原題の『The Equalizer』は、(不均衡・不平等だったものを)均衡に・平等にするという意味を持つため、表層的には、悪による不平等を平等に正すという意味がある。また、元CIAのエージェントとして活動していたマッコールが、自身の過去を悔やんだ末に、亡き妻を想いながら償(つぐな)うという意味合いも含まれている。
しかし、そうしたいずれの姿も、僕たちが決してそのようには生きられない虚像として、焦点を結んでいるところがある。また、この倫理的な虚像性こそが、孤独に生きる人間の影には落ちている。孤独であるということは、どこかで必ず内因的な要素を持っており、それを支えるものは、たぶん彼のような姿をしている。
ハードボイルドの原型として、レイモンド・チャンドラー(1888 - 1959年)が造形したフィリップ・マーロウという男の姿からは、どこか(頑張れば手が届きそうな)リアリスティックな印象を受けるいっぽうで、本作のロバート・マッコールという男の姿は、どこまでもファンタスティックに、意識の裏側に回り込んでいくようなところがある。
マッコールを裏返したなら、ちょうど僕たちの姿になる。
しかし、孤独に生きる人間は、実現不可能なマッコールであろうとするからこそ、現実的な孤独に耐えられるところがある。また、そうした孤独に生きる人間は、強く倫理的であろうとする点では、マッコールと同様に生きてもいる。
決して彼のようには生きられないものの、倫理という軸足を共にする形で、実像と虚像は1つに結ばれることになる。原題の『The Equalizer』が示す最も深い意味は、この点にこそあるように僕には感じられる。
エドワード・ホッパーの『ナイトホークス』もまた、高度に文明的な都会に生きることの孤独が、実像と虚像とを結ぶ地平に現れることを描いた印象がある。僕たちがそれを強く求めるほどに、深夜の人工的な光に落ちる影のようにしか、それは現れない。