青乃雲

ピアニストを撃ての青乃雲のレビュー・感想・評価

ピアニストを撃て(1960年製作の映画)
-
トリュフォーの魅力は、賄(まかな)いパスタの美味しさに近いかもしれないと、こうした作品に触れるとしみじみと思う。冷蔵庫に入っているものという現実的な選択のなか、本質的な直感と遊び心によって、サッと作ってみせた味わい。

そう思ってみたときに、ゴダールについては、新しいファストフードを作ってみせたようにも感じられる。高級食材を用いたフルコース料理に対する、鮮烈なカウンター。その格好良さ。

いずれにしても、好きな映画だけを選んで観るという場所から離れて、その都度、テーマを決めながら小さな遍歴を重ね、再び彼らの作品に戻ってくると、あぁいいなと、いつも思う。そして、何かしらの発見がいつでもある。

長編2作目にあたる、この『ピアニストを撃て』(1960年)は、1作目の『大人は判ってくれない』(1959年)と3作目『突然炎のごとく』(1962年)とに挟まれるかたちで、トリュフォーのなかに宿っていただろう屈託が、自然に発露したような感がある。

この屈託の味わいは、ジャン=ピエール・レオという彼にとってのアバター(分身)を通したものと、そうではないものとに大別されるように感じられ、本作はそうではないほうに属しながら、『柔らかい肌』(1964年)などへと結実していったところがある。

ゴダールが、女を海のように見つめたまなざしを持っていたとするなら、トリュフォーは、あくまでも自己言及的であり、ゴダール作品が女からモテるのに対して、トリュフォー作品がそうではない理由もよく分かる。

また、そのしょっぱさを、男の身としては、たまらなく愛おしくも思う。

アメリカン・ノワール(ハードボイルド)の枠組みを用いながらも、この作品に立ち上げられていたのは、そうしたしょっぱさであり、ノワール(暴力・犯罪)やハードボイルド(やせ我慢)といったモチーフが、逆説的によく効いている。

ピアニスト(男の自意識)は、撃たれなければならない。

★フランス
青乃雲

青乃雲