『牯嶺街少年殺人事件』に引き続き人生の一本になった。
代表作という単語にはその一本で監督の全てを明かしうる作品といった意味合いがあるが、ごく小数に限定しその他を切り捨てるのは趣味が良くないし、映画の健康にも良くない。しかしそれでも未見の者にその世界を紹介するに、つまり宣伝するにベターな方法として(ベストではない、為念)苦悶の表情を用いてこの単語を使うのだが、全8と1/4作(昨年台湾での回顧展ではこのように表現しているとのこと)の中でエドワード・ヤンの"代表作"に挙げられるのは『牯嶺街少年殺人事件』と今作『ヤンヤン 夏の想い出』になるだろうか。
どのような映画が好みかという質問には常々濱口竜介監督作品という回答を用意していたが(これも上記と同じ理由で苦悶の表情で、為念)、今後はエドワード・ヤン監督作品という回答も加わる。
気になるあの娘への恋心から模倣として水泳を試みようとプールで服を着たまま入水するヤンヤン。小さな悲鳴を上げたまま、水面は静かに落ち着いてしまう。カメラはプールサイドから固定されてその安否を追おうとしない。家の洗面台に水を溜めて息継ぎの練習をしていたヤンヤンを知る観客はその傾力が痛ましいものに終わってしまったのか経過を知ろうと画面に引きつけられる。しかし次のシーンでは姉とボーイフレンドを映し話題転換、一度興味は宙吊りにされる。しばらく経って満足げに、何処かしら誇らしげに服までまとめてびしょ濡れのヤンヤンが帰宅するシーンを観るとその姿に微笑みつつようやく安堵する。映画へ興味を引き付ける誘引の術が凄まじい。
教室で天気の映画を観ている時に気になるあの娘が入ってくる。その子がヤンヤンの目の前で席を探しあぐねて辺りを見回している。その子の後景にはその瞬間雷鳴のシーンが映されるが、その次のシーンには舞台が変わって降雨する外の場面を重ねる。
さる女性が叫ぶシーンの次には誕生した赤ちゃんの泣き声をオーバーラップさせるシーン。「ずり上がり」という技法でエドワード・ヤン監督が好んで使うのだが、本作でも非常に巧みに使われている。
劇中で姉のボーイフレンドは映画は人生を3倍豊かにすると語る。加えて自分では見えない一面だからと人の背中ばかりを写真に収めるヤンヤンや幕切れのヤンヤンの言葉(「見たことがないものを見せられるようになりたい」)等にエドワード・ヤンの遺言を観るのは遺作という情報を踏まえてしまった感傷的に過ぎる見方だろうか