レインウォッチャー

シークレット・サンシャインのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

4.5
沈黙を越えてゆけ。

I・ベルイマンの映画諸作や、遠藤周作が描いた神の不在・沈黙、今作は「その一歩先」に踏み込んでいるようでもある。じゃあ神や神による救済が「在ったとて」、いや寧ろ「在ったからこそ」?続いていく生の苦しみをどう受け容れたら良いのか。
たった一人の女性の孤独な戦いを通して、問いかける。

まだ幼い息子と共に、ソウルから密陽(=ミリャン)に引っ越してきたシネ(チョン・ドヨン)。とある喪失を抱えた彼女は、この町で人生を仕切り直そうとしている。
しかし、やがて彼女はここで輪をかけて深い悲しみを経験することとなり、キリスト教の信仰に救いを求める。地域の活動にのめり込んでいくシネ。そして傷が癒やされたか、と思ったとき、運命は更に揺さぶりをかけてくる…

タイトルの『シークレット・サンシャイン(=秘密の陽射し)』は、町の名前・密陽とかかっていることがアバンで明かされる。陽射し、つまり蒼天から注がれる《光》は、映画の中で何度もフォーカスされ、神 / 救いの象徴としてあらわれる。

引っ越してきて早々、立ち寄ったブティックの陽当たりについて店主に講釈を垂れるシネ(ここで既になかなか性格に難あり、とわかる)。加えて、薬局の女性から宗教に勧誘されたときには「ただの陽だまりの中にも神のご意志が宿っている」と諭される。
この時点では、シネはまったく興味を示さないわけだけれど、まるでそんなシネに対する罰、あるいは神なる者の自己顕示でもあるかのように、光は常にシネの周囲に付き纏うのだ。ラストカットに至るまで、「果たしてそこには何かが居るのか?」「居るって思うよねぇ?」と静かに・厭らしく問い続ける。

映画は、絶望→信仰→さらにその裏切り、といったシネの変遷を追う。何度も傷つきながら精神のバランスを崩し奇行が増えていく様は、今作を『ローズマリーの赤ちゃん』や『ヘレディタリー/継承』タイプの「誰かが段々おかしくなる」類の映画としても見どころ抜群に仕立てている。
そこに、主演ドヨンの恍惚とすら感じさせる憑依演技と、イ・チャンドン監督らしい時に冷徹でドライとも言える絶対的に立ち入れない《他者》を意識させる目線(カメラは時にドキュメンタリー的ですらある)が合わさって、わたしたちを後戻りできない思考の沼に連れていく。

明らかに多(重)すぎる苦悩を背負わされて彷徨うシネの姿は、イエスに重ねることもできるだろう。映画の開幕からして彼女は「迷って」いる場面から始まるわけで、イ・チャンドン監督の前作『オアシス』から地続きであることがわかる。

一方で、神の《裏切り》を体験した後の彼女は、信仰への疑いをゆうに越えて神に反抗し挑戦し続けるようでもある。盗みや姦淫を見せつけるように行い、何度も天を睨みつける(※1)。
断片的にうかがえる過去の家族(特に親?)との一筋縄ではいかない関係は「父なる」神へと重ねられ恨み節となり、ついに彼女は禁断の果実である林檎を食し、とある最大の罪とも呼ばれる行動に至るのである。

シネは、イエスから裏切りのユダへと転じたのだろうか。しかし、運命論的にいえばユダの裏切りがその後のイエスの復活と栄光を導いたともいえて、お節介でエゴイスティックな神の掌の上では二者に違いはないともいえるだろう。イエスとユダは同一の存在としてシネ…つまり人間誰しもの中にあるのかもしれない。事実、シネは《復活》を経て、生きて考え続けることを強いられる。(果たして、イエスは本当に《復活》なんてしたかったのかしら?)

もしもシネがイエス/ユダなら、彼女に惚れて甲斐甲斐しく世話を焼く少々デリカシーレスな男・キム社長(ソン・ガンホ)はイエスの一番弟子ペトロを思わせる。その人間臭さ、シネに塩対応されようと付き従う様。
そしてペトロは一番弟子とはいえイエスに背いたこともあるのだけれど(そこもまた人間臭い)、同じようにキムもシネを一度は見捨てる。その後、やはり《復活》のあとに彼女の元へと戻ったりもする。

そんなこんなを経て最終的に示されるのは、神が居ようと居まいと、誰もが「ただ、生きていかねばならない」という厳然たる事実である。この点において、シネとわたしたちは何の違いもなく繋がっている。
密陽はどんな町?と訊かれたキムは、すこし考えて「どことも同じですよ」と答える。密陽は、神の救いとされるシークレット・サンシャインは、何も特別なものではなく何処にでもあるということ。シネの戦いは、これからも絶え間なく続くだろう。終盤に示される、いくつかの何か意味があるのかもわからない《兆し》。自分の心身とは何の関係もなく、空は晴れて、晴れれば光が降ってくる。降ってきやがるのだ。

それに対して、「負けねえからな」と荊を踏みしめて歩む生は、果たして苦しみなのか救いなのか?『ペパーミント・キャンディ』における「人生は美しい」の意味が、ここにきて再び響いてくる。

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※1:前作『オアシス』で、主人公ジョンドゥが牧師の祈りの最中にこっそりと上を見上げていたシーンを思い出す。前作では《疑問》に留まっていたのが、今作では《怒り》すら感じさせる。