垂直落下式サミング

シークレット・サンシャインの垂直落下式サミングのレビュー・感想・評価

5.0
夫を亡くしたシングルマザーのチョン・ドヨン。引っ越した先で息子を誘拐され、我が子を救うために犯人の要求に従うが、息子は遺体となって発見される。我が身にふりかかるあまりの不幸に生きる意味を見失う彼女だが、宗教に救いを求めて洗礼を受けることで、次第に生きる希望を取り戻していくのだが…というおはなし。
全編にわたって、人の心の弱さにつけこむようなかたちで、世に蔓延る不健全な信仰の有り様が描かれている。
信心深いキリスト教徒となって立ち直った主人公は、ひとまず自分の気持ちも落ち着いたからと、自分の子を殺した悪人に「神の名のもとに、あなたを赦します」と伝えることで、自らの敵にも安らぎを与えようと、よせばいいのに犯人と面会をしに出かける。そうすることによって、過去と決別しようとしたのだろう。だが、相手は「私はすでに神に懺悔し赦されました。だからもう心安らかです」と言って、お前の赦しなんか必要ないという具合なのである。
この面会の帰りに主人公は精神的ショックで失神する。腹のなかに押し込めていた憎しみが吹き出し、さらには心の拠り所としてきた神にさえも見放された怒りと失意とが一緒くたになって濁流のように押し寄せ、信仰という処方箋によって後へ後へと持ち越されていたものが、一度にズシンと心にのし掛かってしまうのだ。
映画をみている我々も、目の前のこの男に対して、そして、こんな理不尽を許容する信仰そのものに対して、強烈に憎しみを感じてしまうほど、圧巻の表情で演じて見せてくれる。主人公を演じるチョン・ドヨンの演技は、シーンごとに表情を変えていく。まったく凄まじい女優だ。救いを求めて神を信じたばかりに、測り知れないほど大きな絶望を味わう女性の姿が、そこにあった。
信仰は主人公の「悲しみ」に入り込んだ。彼女の身動きがとれなくなるほどの深い心の傷を癒し、生きる糧となることで弱者である彼女に希望を与えた。ここまではいい。
しかし、信仰は件の犯人の「歪み」にも同じようにするりと入り込むのだ。これによって彼は自らを赦し、神に赦される。平等に、均一に、すべての人間は信仰に頼ることができる。はたしてそれでいいのか?
リアリティを追求する救いのないストーリーのなかで、一服の清涼剤となるのがソン・ガンホ。無神経だが純情な田舎の野暮天男を演じ、未亡人のドヨンを追いかける続ける。女を口説くために始めた教会通いが、いつの間にか習慣になっていたという彼だけが、健全な距離感で宗教と向き合っているようにみえた。
日本では歴史上キリスト教徒が人口の1%を超えたことはないのに、韓国は20%以上の人がキリスト教徒の国だ。朝鮮戦争を経て国家として自立し経済成長をとげた今でもそうだというから、朝鮮半島には性悪的な西洋思想を受け入れやすい文化的な土壌があったのかもしれない。
だが本作をみるに、それがそのままのかたちで、まったく問題なく受け入れられているというわけではないということがよくわかる。
本作は、宗教に傾倒する人の心の不健康と、宗教が誰にでも分け隔てなく開かれているが故に持つ矛盾に、ハッキリと否を唱えている。西洋圏でも絶賛されたということは、この映画が描き出す矛盾は、宗教に非常に敏感なヨーロッパの人々にも響くものがあったのだろう。
根本的に人は自分しか愛せない生き物だ。だから何千年も昔に神様から吹っ掛けられた「汝の敵を愛せよ」という無理難題が、今も我々を苦しめ続ける。それは本当に人を救う教えのだろうか。罪も不実も赦すことで、本当の意味で豊かな人生を歩み、祝福を得られるのだろうか。そんな命題に挑んだ傑作である。