垂直落下式サミング

犬神家の一族の垂直落下式サミングのレビュー・感想・評価

犬神家の一族(1976年製作の映画)
5.0
信州財界の大物が他界し、その莫大な遺産の相続権をめぐって一族の間で猟奇的な連続殺人事件が勃発する。不穏な空気を察知した関係者によって呼び寄せられていた探偵・金田一耕助の推理が冴える横溝正史のサスペンス。
「顔を隠したふたりの男」によるトリックは、世代を越えて好事家たちが口の端にかけてきた有名なサスペンスのプロットであるため、今さら深く言及する必要もないが、この1976年の劇場版『犬神家の一族』は、原作小説の力だけに依らない、強い意匠に満ちた表現主義映画の大作だ。
スケキヨのゴムマスク、逆さに浮いた水死体、生首の菊人形など、実に明確で象徴的なイメージの数々が本作を一本の映画として特別なものにしており、それによって人間の負の情念を描くことにかけては、やはり鬼気迫るものがある。
また、犬神佐兵衛の死とともに不穏に流れ始める「愛のバラード」の旋律は、からっとした陽性のメジャー映画の風格があると同時に、しっとりと暗がりに落ちてゆくような湿り気を帯びていて、耳心地がいいのに張りつめたような雰囲気。
これにくわえて、時代背景、那須市のロケーション、旧家のセットなど、それらを細やかに連ねていくモンタージュも、本作を語る上で重要なファクターだ。
キューブリックは、俳優を画面を構築する小道具のひとつだと考えていたようだが、同じように市川崑は、俳優の演技を単に絵や音楽と同列に扱っており、名演だろうがなんだろうが平気でショットを切り刻んでしまう。ここが痛快。犬も食わないような御家騒動を発端として巻き起こるおどろおどろしい殺人の物語をみているはずなのに、軽快な編集と気の抜けたような映画オリジナルの緩急によって感覚を操られる。この世のすべての間抜けをコントロールしたもの、それが犬神家だ。
ふけまみれの頭でひょうひょうとした石坂浩二の金田一をはじめ、役者陣はみな好演。特に印象的なのは、裸一貫から一代で富を築いたという犬神佐兵衛の大往生、これを三國連太郎が目だけで感情を伝える。
清涼剤となるのは、宿屋の女中を演じる坂口良子の若さと美しさ。宿泊者を業務的にもてなす態度が次第に小さな好意に変わってゆく、このもどかしさが物語のヒロインらしい。着物が襖に挟まる演出も妬いているような可愛らしさである。
何より金田一。女中が朝飯を下げに来て「全部私がこしらえたのよ。何が美味しかった?」と訊いたら、心ここに非ずで「生卵」と答える変人である。一方、日本の排他的な村社会が構成する人の和のなかにするりと入り込むような人なつこさも持ち合わせる、一筋縄でないギャップ萌えの男だ。
最後、登場人物の皆が金田一との別れを名残惜しそうに縁を繋ごうとするのに、当人は仕事以外の人付き合いなどわずらわしいと、金を受け取ったらさっさと帰ってしまう。この温度差、社会性のなさ、なのにずっとこの雰囲気に浸っていたくなるような、ノスタルジックな暖かさに包まれる。
金銭や契約によってしか繋ぎ止めることのできない珍奇な来訪者に、我々は心惹かれるのかもしれない。