映画漬廃人伊波興一

ヒストリー・オブ・バイオレンスの映画漬廃人伊波興一のレビュー・感想・評価

3.2
既存しない生態系で擬人化した生きものの争い。

デビット・クローネンバーグ
『ヒストリー・オブ・バイオレス』

身近にコアなフリークが多数いたとしても、どうしても嗜好が合わぬ作家がどなた様にもいると思います。
私にとってはさしずめ私自身が勝手に名付けたデビット御三家 (リンチ、フィンチャー、そしてクローネンバーグ)

尊重を事欠くのは常に自戒せねばと接していていますが、実は『戦慄の絆』も『裸のランチ』も『Mバタフライ』もいささか忍耐を強いられて観た記憶があります。
何も好き好んでフリークの方々と歪(いびつ)な関係を築きたいわけでない。やがて自分の中でクローネンバーグの存在が抽象的になって気づけば10年余。

では何故今、その10年前に観逃した『ヒストリー・オブ・バイオレス』と向かい合う気になったのか。
それはタイトルに響く、ただ事でない逆説的な鐘の音が未だ私の中で鳴り止まらぬからです。
クローネンバーグ作品がヒストリカルで暴力的であるわけがない、と。

本来、暴力とは至極単純なもので、まともに向かいあえば、その恐ろしさの前に、何かを奪うか?何かを守るか?という才能や技量などとは全く無縁の、人間の本能だけに根差した反応が誘発されます。
本能はやがて、何かを奪うにせよ、あるいは何かを守るにせよ、逃亡に徹するか、格闘に徹するかという二者択一の選択を劇中人物に求めて、何が起こるかも分からぬ画面が、観ている私たちの心臓に呼応するように(活劇)として震えていくのです。

とはいえ(活劇)として震える画面で、私たちの心に呼応させるには、飽くまで人間の本能に根差したものでなければならない筈。

例えばエイリアン👽vsプレデター👾や、ジェイソンvsフレディでいくら死闘が繰り広げられようが、カルトの慈愛や冷笑は引き出せても、私たちに驚きはもたらさない。

エド・ハリスが過去に有刺鉄線で潰された左目を露わにした瞬間からヴィゴ・モーテンセンのアクロバティックな頭突きや肘鉄も、一瞬で相手の頭を撃ち抜く銃撃戦も、獣同士の共喰いか、昆虫の捕食のような印象を招くのもその為です。

サム・ペキンパーやドン・シーゲル、あるいはキンジ・フカサクやタランティーノらの映画と同じくらい弾丸が飛び交こうが、血が流れようが、肉片が飛び散ろうが、彼らが定着させた(活劇)とはまるで異質なのは、『寄生獣』 (岩明均)のパラサイトのように、既存しない生態系で擬人化した生きもの同士の争いであるからに他ならない。

息子を身柄を守ってくれた夫を、本来なら心配したり労う筈なのに、自営するカフェで最初に強盗を撃退した時とは違った怯えた目で妻マリア・ベロが語る
(私は見た!あなたがトムからジョーイ変わっていく瞬間を!)
と叫ぶ台詞に端的にあらわれています。

黒幕のウィリアム・ハートを始末し、全ての事を終えたヴィゴ・モーテンセンが自宅の食卓に戻って来た時、殺されたまま二度と帰って来ない事を妻が心底願っていたのは皿の用意をしていなかった事でも明らかですが、目の前の夫がどうしても人間には見えない彼女が祈るように両手を合わせて震える姿はもはや逃げ場のない場所に追い込まれ、許しを請うしか術がないように見えてきます。
この場面こそ人間がいちばん本能に従うさまが垣間見え、率直な恐ろしさがありました。

ですが『ヒストリー・オブ・バイオレス』の本当の恐怖は実は別の点にある事を私たちは知っています。
このパラサイトの遺伝子がしっかりと息子に(継承)されているのを目撃しているのですから。
クローネンバーグのそんな禍々しさこそが実はいちばん恐ろしい。
いつの日か主人公がこの遺伝子の捕食の餌食になるのか。
クローネンバーグは黙っているのみですが、
(ヒストリー)にも、(バイオレンス)にも、クローネンバーグが別の意味を与えていた事を覚った時、今まで鳴り止まなかった鐘の音がこの語りの形式の簡素さに乗って何とも不気味な心地よさとして躰の中に響いてくるのです。