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ワイルド・ギースのmasatのレビュー・感想・評価

ワイルド・ギース(1978年製作の映画)
4.1
隅から隅まで、登場するキャストが素敵であると思える映画も、そうはない。
脚本もそうだが、演出も含め、メインキャストは勿論のこと、それ以下もピリッと個性を立てるのが絶妙に巧い。
そんな映画が出来るのも、映画が博打であった時代の成果。今回は巧くいった、いかなかった、そんな感覚で量産されていた時代の“力”なのだろう。そんな乱暴な魅力、荒削りな躍動感は、もはや失われた興奮となって、輝いて見えた。

肉体を使っていた時代の“意地”が漲っているのである。

78年、アメリカン・ニューシネマが発進して10年。あらゆる才能が“負け”を表現し、さらにその上での新たなる出発をスクリーンに描出させ、飛躍を始めていた頃・・・老人(『ハリーとトント』)も主婦(『アリスの恋』)も、そしてタクシー運転手(『タクシードライバー』)も、長く続く道へと出て、死なずに明日へと向かった。

そんな頃に、本作は“負けたけど勝つ”、心で勝つことの興奮、映画らしい熱さを、負けじと表現していた。
そう、前時代的な意地、その湧き上がる意志がなんとも沁みる珠玉のB級アクション。

そんな作家(脚本家と監督)の意志は、そのまま、登場人物、キャラクターたちへと憑依し、俳優たちの意志へも反映され、意地でも突き進む、終わっていない男たちの心情を炸裂させた。

そう、これは、その作家たちのリアルと俳優たちのリアルが結託した塊、珠玉の結晶でもある。
アメリカン・ニューシネマでは、まったく相手にされない、しかも新たに幕を開けようとしている“ファンタジー”の分野でも見向きもされない、前時代的な俳優たちのリアルな心情が共鳴し、底知れない威力をキャラクターに齎した。

007を首になった、最もエレガントだったロジャー・ムーアの粋な身のこなしを見よ。ラスト、飛行機を飛ばす時に足を撃たれるシークエンスを挿入し、クライマックスに彼を立たせた愛情が素晴らしい。
リチャード・ハリスの理知的なキャラクターの場を弁えた立ち位置は、ラストの悲劇に大きく作用する。そんな彼も、前半、安宿でロジャーを救出する時に、ドアをブチ破って手榴弾を落とすシークエンスにより、荒くれる時は手段を選ばない奴だと言う顔を垣間見せる。と思えば、次のシーンで、ボコボコにされたロジャーの恋人を前に「キスぐらいしてやれよ」とサラッと囁く繊細さがニクイ。
今回改めて見直して、ハーディ・クリューガーが前半結構引っ張っていると解った。このドイツ人俳優に、アフリカ産まれの兵隊の役を与え、アパルトヘイトへの理解と調和を一身に背負わせていた。ボーガンの華麗なる暗殺シーンも素敵だが、敵陣の牢屋の廊下で、敵兵と正面衝突するアクションカットも秀逸。また、出撃前に「無駄な殺しをオレはしたくない」と訴えながら、「アフリカに帰って牧場をやりたいからヤる。そんな殺しに、永遠に苛まれながらこの後、生きるんだ」と、なんとも切ない台詞を吐き捨てる独演も必見シーン。
こんな個性を束ねる主役のリチャード・バートンは、衰えつつあるパワー低減への時期の最後の奮闘と言うべき、中心の軸を必死に守り、涙ぐましいダンディズムを放つ。結局、アカデミー賞に輝けなかった呪われた映画人生も含め、人生最後の熱演と言えようぞ。

スチュアート・グレンジャー初め、ジャック・ワトソン、フランク・フィンレイ、他にも隅々までそんな俳優たちの吹き溜まりだ。
哀愁を帯びた全出演者たちの翳は、本作のテーマ曲、アパルトヘイトを謳うあのメロディの裏テーマとして、謳われているかの様だ。

それぞれが背負う俳優人生と、キャラクターがオーバーラップする奇跡的な映画でもあり、なんともB級の意地を見せつける記念碑的な映画なのである。
そして低調だったイギリスのイギリス映画の旗の下に集った、イギリス人監督とイギリス人俳優たちが奏でる英国映画の意地の記念碑である。
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