YasujiOshiba

女優ナナのYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

女優ナナ(1926年製作の映画)
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U次。24-136(135 はロルヴァケルの短編『ALLÉGORIE CITADINE』)U- next は修復版を使っていて画質がよい。168分。伴奏もなしでインタータイトル(中間字幕)には日本語訳がつく。

冒頭のレビューの舞台シーンのカメラワークがすごい。ナナ(カトリーヌ・ヘスリング)の足を写し、梯子を登らせるところを追いかけ、キャットウォークを固定で正面から撮ると、ナナを吊り下げるところは上からの俯瞰。

さらに劇場に来ている登場人物を紹介する手法が見事。舞台、オーケストラピット、平土間席から桟敷、そして天井桟敷をカメラが映し出してゆくのだけれど、それぞれの観客=登場人物が投げかける視線の位置からのショットで舞台のナナを捉えるわけ。だから、斜め上からのショットとか、まさにPOV的なカメラなんだよね。

この手法をさらに発展させたのが、ヴィスコンティの『夏の嵐』(1954)の冒頭のシーン、ヴェネツィアのフェニーチェ劇場でヴェルディの『イル・トロヴァトーレ』が上演されているところだけど、これはもしかすると師匠のルノワールからの引用かと思ってしまう。それほど、ルノワールが技法的に先行していたということなのだろう。

備忘のために記しておくと、カンカンのシーンがすごいんだよね。ルノワールはのちに『フレンチ・カンカン』(1954)を撮るけど、その先駆けといえばよいのだろうか。なにしろ人数がすごい。舞台が広い。それをカメラがパンフォーカスでバッチリと映し出す。その豪華さは修復版だからこそ堪能できる。

続きはまた明日...

 さて、少し『ジャン・ルノアール自伝』(みすず書房)の該当箇所を眺めてみた。ルノアールは、父親のピエル=オーギュスト・ルノアール(1841-1919)の晩年のモデルであり、その後妻となったカトリーヌ・ヘスリング(1900-1979)と映画を始め、1924年に『カトリーヌ Catherine』を制作、次に実験的な『水の娘 La Fille de l'eau』(1924)を監督し、そこから抜粋された「夢のシーン」が評判となり、あきらめかけていた映画作りの継続を決意したという(自伝 p.98)。
 
 ドイツの製作会社の共同製作で、主役のムッファ伯爵役に『カリガリ博士』(1919)のヴェルーナ・クラウスを迎え、私財までも投入し、あげくは父の絵を売却し尽くして撮ったのが、この『女優ナナ Nana』。なるほど、配役や舞台装置もすごさが伝わってくる。

そのナナという人物像について、ルノアールの言葉を引用しておこう。ここにはルノワールの映画への考え方の変化が示されている。彼がそれまで理想としたのは造形芸術としての映画だった。映画は「風景」を提示すればよいのだ。しかし、それでは映画の観客は納得しない。観客が映画に求めているのは、「風景」というよりも「ドラマ」なのだ。そのドラマを、ゾラによるナナという人物が与えてくれるというのだ。

「よく考えてみれば、ナナは単に道徳観念のない女というだけではなく、
社会の堕落の人格化なのである。ナナはあらゆる階層を通り抜け、舞台裏から宮廷の社交界へ、マビーユ・ダンスホールから王侯のごとき住まいへと移っていくではないか? 危険で破壊的な人物像だが、しかし月並みなところは皆無の、いきいきとした生命感あふれる彫像なのである。この人間臭い側面がわれわれを引きつけた。それを映画で示したかったのだ。
 ナナを当世風の「ヴァンプ」に仕立てるのはたやすいことだったろう。だがそうするつもりにはなれなかった。われわれはナナの生きた時代、環境をそのままにしておき、無分別で冷酷な女、通った後には廃墟しか残さないような女としてナナを描いた。結末は変えて、彼女は嘘と冷酷さからなる人生の果てに、ありとあらゆる悔恨、恐怖に取りつかれ、半狂乱になって死ぬことにした。
 この結末を観客は非難しないだろうとわれわれはじている」
(『ジャン・ルノワール、エッセイ集』 青土社、p.329)

 なるほど、ナナの存在はドラマチックだ。しかし、ラストシーンなどはみごとなコントラストのなかで、ナナのドラマ/悲劇を称揚する。それは、ある種に生き方の悲劇であり、ある種の時代(ロココの時代)の終焉なのだ。

 ただし、ナナの顔が能面のようなのが気になる。もちろんそれは意図的に白と黒のコントラストの追求をした結果なのだろう。男性の顔はそうでもないのだけど、ナナの顔だけは、かなり誇張的にコントラストが強調されている。

 ひとつには、当時のスタジオ撮影でオルソフィルムが使われていたということもあるのだろう。光量が足りなくても、コントラストのくっきりした映像が撮影できるフィルムなのだ。このころのルノワールはきっと、このオルソフィルムの特徴を生かした陰影にこだわっていたようだ。

 すでに当時、屋外の撮影ではパンクロマチックフィルムも使われていた。しかし、これをセットで使うには照明の光量がたりない。オルソフィルムとパンクロフィルは何が違うのか。ウィキペディアのモノクロフィルムの項目にはこうある。

「パンクロマチックフィルムは可視光線のすべてに対して感度を持っている一方、オルソクロマチックは青と緑に限られ、赤に対しては感度を持たない。(中略)パンクロ感材の実現には20世紀初頭まで待たねばならず、1906年になって写真用の感材が商業的に提供されるようになった。 しかしオルソクロマチックからパンクロマチックへの移行は以下の理由により、徐々にしか起こらなかった。
* オルソクロマチックの2 - 3倍という費用の高さ
* 赤色灯をセーフライトとして用いられたオルソクロマチックと違って暗闇で現像を行わなければならない
* 黄色や赤への感度を持たせる処理が青や紫に対して以前よりも高い感度を与えてしまい、これの補正するためのレンズのせいで長い感光時間が要求された
・パンクロマチックは、オルソクロマチックの2 - 3倍という費用の高さ、赤色灯をセーフライトとして用いられたオルソクロマチックと違って暗闇で現像を行わなければならない。黄色や赤への感度を持たせる処理が青や紫に対して以前よりも高い感度を与えてしまい、これの補正するためのレンズのせいで長い感光時間が要求された」
(https://ja.wikipedia.org/wiki/モノクロフィルム#パンクロマチックとオルソクロマチック)

 つまり、1920年代の白黒映画の時代に、オルソクロマチック(orthocromatic)とパンクロマチック(pancromatici)という技術があり、一方は屋内撮影、一方は屋外撮影に用いられていたということのようだ(自伝p.74)。

 けれども、パンクロマチック・フィルムの存在を知ったルノワールは、その技術的な可能性に気がつき、コントラストよりもニュアンスの豊かな映像を目指すのようなるのは、この次の『マッチ売りの少女』(1928)を待たなければならない。そのころまでにルノアールは、仲間たちとパンクロフィルムのための照明や現像所を作り上げることになる。

 オルソクロマチックからパンクロマチックへの移行は、ある意味でモノクロ撮影からカラー撮影への移行のようなものなのかもしれない。そこで、映像表現の可能性が大きく変わる。パンクロの場合は、リアリズムへの道を開く。それはトーキーの到来とともに、さらに演技の質を変えてゆくことになる。

 そういえばヴィスコンティもたしか、最初のカラー作品『夏の嵐』では作風を大きく変えた。大型の照明装置を駆使して光量を確保するカラー撮影は、パンクロマチックフィルムでの光量問題よりもずっと大掛かりだったはずだが、カラーになることによって映画の世界は明らかに変わる。ヴィスコンティの場合は、色彩豊かなメロドラマへの道を開くことになる。
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