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アテネ/アクロポリスへの三度の帰還
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『アテネ/アクロポリスへの三度の帰還』に投稿された感想・評価

アンゲロプロスのアテネ案内。
テオドロス・アンデロプロス。
TV向けドキュメンタリー作品であるが、彼の叙情的映像や長回しと、ドキュメンタリーとの親和性には目を見張るものがある。

広場に置かれたピアノに陽が当たり、鳥の影が横切る。
満月に照らされるアクロポリスの遠景。

アテネの成り立ちからオスマンによる支配。
独立してからもトルコとの戦争、二度の大戦期の独裁政権、戦後の内戦と軍事独裁政権化、そして共和制化と政情が混迷を極めたギリシャの首都、アテネ。
監督の愛したこの街を、ノスタルジックに、そしてメランコリックに切り取った作品である。
[悲しみと歴史の街アネテの行脚]

"欧州の文化的首都"シリーズの一篇で、アンゲロプロスによるTV向け中編ドキュメンタリー。生まれ育った街アネテについての短いエッセイのような作品。アクロポリス時代に始まり、ビタンチン様式の教会、トルコ系モスク、現代的なマンションに残る生々しい弾痕に至るまで、深く長い歴史を感じさせる街をアンゲロプロス的視点で巡っていく(これがTV放映されるギリシャ凄いな)。イオルゴス・セフェリスによる詩、ヤニス・ツァロウチスによる絵画(上裸の若い男性天使のモチーフが現実世界にも登場)、マノス・ハジダキスによる音楽というアンゲロプロスのインスピレーションの源となった同年代のギリシャの英傑たちが集結している。主人公がアネテという街(そこには無名の住民たちも含まれる)になったいつものアンゲロプロス作品という感じ。広場に放置されたグランドピアノが忘れがたい。
“「新しい天使(アンゲルス・ノーヴス)」と題されたクレーの絵がある。そこには一人の天使が描かれており、その天使は、彼がじっと見つめているものから、今まさに遠ざかろうとしているかのように見える。彼の目は大きく見開かれており、口はひらいて、翼はひろげられている。歴史の天使はこのように見えるにちがいない。彼はその顔を過去に向けている。われわれには出来事の連鎖と見えるところに、彼はただ一つの破局(カタストロフィー)を見る。その破局は、次から次へと絶え間なく瓦礫を積み重ね、それらの瓦礫を彼の足元に投げる。彼はおそらくそこにしばしとどまり、死者を呼び覚まし、打ち砕かれたものをつなぎ合わせたいと思っているのだろう。しかし、嵐が楽園(パラダイス)のほうから吹きつけ、それが彼の翼にからまっている。そして、そのあまりの強さに、天使はもはや翼を閉じることができない。この嵐は天使を、彼が背中を向けている未来のほうへと、とどめることができないままに押しやってしまう。そのあいだにも、天使の前の瓦礫の山は天に届くばかりに大きくなっている。われわれが進歩と呼んでいるものは、この嵐なのである。”

ヴァルター・ベンヤミン『歴史の概念について』(第Ⅸテーゼ)より抜粋


古代ギリシアの息吹が通り抜ける街をめぐった記録の旅路、あるいはアテネの風景から立ち現れるストローブ=ユイレ『Lothringen!』の影。

映画史におけるアンゲロプロスといえば、言わずと知れたギリシャの巨匠、長編物語映画を得意とする映像の詩人、その徹底的な長回しと叙情的映像によって、時として「ギリシャのタルコフスキー」とも形容されるほどの作家であり、時代や国内外を問わず非常に高い評価を得ている人物だ。しかしながら、例外的に本作においては、そんな従来のアンゲロプロス映画に見られた劇的なドラマトゥルギーやプロットが一切の姿を露わにしない。というのも、そもそも本作はヨーロッパの文化首都をテーマにしたテレビシリーズの一編として制作された作品であるため、余計な演出や物語性が削ぎ落とされているのは当然なのだが。ただし唯一、淡々とスローシネマ的に刻印されていく詩的時間観や、極めてアンゲロプロスらしい歴史の断絶性などは保持されたまま、彼自身の出身地であるアテネを個人的な記憶の地図として再訪する旅路がここに記録されている。
そこで、本作はその簡潔なドキュメンタリー形式にもかかわらず、アンゲロプロスの長編群に通底する時間感覚と歴史意識を凝縮した作品として、探検・自然・民俗・文化ドキュメンタリー作家であるRay Garnerとその妻Virginia Garnerのフィルモグラフィにおける古代文明ドキュメンタリーシリーズ(特にそのような総称ないし正式なシリーズがあるわけではなくて、『Be-ta-ta-kin』『The Ancient World: Egypt』『The Ancient World: Greece』『Land of the Book』などの考古学的テーマを扱った作品群を私がただ便宜上そう呼んでいる)や、ジャン=ダニエル・ポレがバッサイのアポロ・エピクリオス神殿の様子を詩的に綴った短編ドキュメンタリー『Bassae』などを思い起こさせるが、とりわけストローブ=ユイレの映画実践、そのなかでも『Lothringen!』との比較において、本作はいっそう鮮明な輪郭を獲得しうるだろう。

まず初めに、映画空間の扱いにおいても本作と『Lothringen!』は、ともに風景を歴史の累積として捉える問題圏に属しており、実際に本作の撮影舞台となったアテネ(象徴的なアクロポリスから、街に刻まれた戦争の傷跡まで)が単なる歴史の遺構としてではなく、複数の時代が折り重なる現在的な場として画面に現れる。ストローブ=ユイレ的なfixショットこそ少ないものの、本作の撮影は基本的にパンと車載のトラッキングショットとが反復的に繰り返され、キャメラはその風景について説明することなく、移ろいゆくショットのなかで観客に思考を委ねている。
一方『Lothringen!』では、フランス北東部ロレーヌ地方の中心都市メスの風景が、国家の帰属をめぐる暴力的な歴史の痕跡を帯びた場所として提示されながら、ここでもまた風景はただの背景として扱われずに歴史そのものの現前として捉えられる。ストローブ=ユイレの映画を成立させるための絶対条件たる、厳格なfixとパンによってのみ構成されたショットは、視線の位置と移動を徹底的に抑制することで、空間の連続性を安易に保証することなく、各ショットごとに風景を切り分け、配置し直していく。そのようにして、メスの空間は単一の歴史的連続体として把握されるのではなく、異なる時代に属する痕跡が断続的に現れては消え、その都度ごとに再編成される場として現れるのである。
以上のように、本作における反復的な移動ショットと、『Lothringen!』における極度に制限された視線の操作を見てくると、そこに共通しているのはカメラ運動とフレーミングのあり方そのものによって、歴史の累積がいかに現在において経験されうるかを組織している点であることが分かってきた。すなわち、両作の空間における連関性とは、再現される過去ではなく現在においてもなお持続する歴史として経験されることに起因した性質であると考えられる。

次は、映像と言語の非対称的関係のなかで開かれる歴史について探りたいと思う。言語の扱い方という観点においても、本作と『Lothringen!』には詩的なテクスト引用を中心としながら風土と歴史をめぐるものとしての共通項があり、いずれも言語を歴史の説明装置として中心化しないことで共鳴している。ひいては、両作において問題となっているのは、むしろ映像それ自体がいかようにして歴史を担いうるかということで、あくまでも言葉はその条件のもとで再配置されているにすぎない。
先述した通り、本作の状況では言語は説明装置としてのみ機能するのではなく、必ずしも抑制されているわけでもない。重要なのは、言葉が詩的言語や多様な土着的引用として導入されている特徴である。例えば、20世紀を代表するギリシャ詩人であり外交官でもあったイオルゴス・セフェリスの詩や、ビザンティン美術とモダニズムを融合した現代ギリシャを代表する画家ヤニス・ツァロウチスの絵画、そして国民的作曲家マノス・ハジダキスをはじめとするギリシャ音楽の断片といった、それぞれがギリシャという国に根ざした文化人を中心に引用されている。
しかしそれらは出来事を説明的に秩序づけることはせず、断片的に配置されることで映像と並走し、歴史を示唆するにとどまる。ここでもまた、長回しやミニマリズムといったスローシネマ的時間の持続によって構成される画面が、言語に先立つかたちで歴史の層を可視化している。
他方、『Lothringen!』においては、ロレーヌ地方に染みつく普仏戦争の悲劇的な歴史に基づきながら、同時に国粋主義的作家モリス・バレスによる長編小説『コレット・ボドッシュ』の一部を巧みに引用したテクストの発話の反復が際立っており、それが決して叙述的理解や感情移入を導くものではないことは、物語的機能から解放された音響(あるいは物語に回収されきらない音響、例えばクラシックや環境音など)で構築されたアンビエント的音響空間を背景に、朗読的且つアカデミックな語りとリズムによって織りなされる難解なテクストの連なりを見れば疑いようもない。その結果、映像とテクストは物語に回収されることなく、緊張関係のうちに併存していると言えるだろう。より言えば、発話は非心理的でありながら風景と切り結ぶようにして配置されていることで、両者のあいだに還元不可能な隔たりを生じさせるのだ。このとき、言語は意味を明瞭に媒介するのではなく、むしろ映像と並置されることで、その指示関係を不安定化させる契機としてすら機能しうる。つまるところ、歴史の具体性は言語によって閉じられているのではなくて、映像との関係のなかで開かれたものとして提示され、風景の持続とその物質性において担われているという結論に辿り着く。
したがって両作の詩的言語の扱いには、その機能の観点において確かな連続性が認められる。両作における言葉は、歴史を説明し尽くすものとしての役割に依存することなく、映像が担う語りに対して補助的・撹乱的に作用する要素として再配置されていると解釈可能である。

第三に取り上げたいのは、俳優の身体が帯びる歴史性についてである。私はこれまでに、本作を『Lothringen!』と接続させることを目的として論考を進めてきたが、アンゲロプロスとストローブ=ユイレに通底する歴史的アプローチ、とりわけ本作の映像とテクストにおける歴史性をストローブ=ユイレのフィルモグラフィから探った場合に、本来的には『早すぎる、遅すぎる』との比較が最適だと思われる。ではなぜ本稿においては『Lothringen!』との比較検討を試みたのか。それは以下で論じる俳優の身体性という観点に限って、この選択に代わる適切な比較対象が他に見出せなかったためである。
したがって、本節では前節に続いて『Lothringen!』の状況から考察したい。まず、『Lothringen!』における俳優とその視線の扱いのなかで気になるのが、ジャン=マリー・ストローブの姪のエマニュエル・ストローブ演じるコレットが、劇中においてたったの2シーンしかフレーム内に収められない点、そしてそのいずれのシーンにおいてもコレットの視線はキャメラに引き寄せられないという演出である。
最初に登場する彼女は、背をこちらに向けた状態で池のほとりに佇んでおり、こちらを振り向く動作とともに“私は、千年も前にメスの人たちが何を考えたのかは知りません。けれども、自分がどうしたってドイツ人ではないということはよく承知しております。”という台詞が発せられる。振り向きざまに横顔が捉えられるものの、視線は逸れたままである。
次にコレットの姿が捉えられるのは、先ほどのシーンから大きく離れて映画の終幕、ロレーヌの美しき新緑とその奥に広がる街の景観を背景に石塀へ腰掛け、正面を向いた姿で再び現れる(ここでもコレットによる台詞が発せられるが冗長なため省略する)。ただしこの場においても、視線は風景へと向けられるか、あるいは閉ざされて、キャメラと直接交差することはない。
この『Lothringen!』の状況を踏まえて考えてみると、本作における身体の配置もまた、類似の構造を持っていることが見えてくるだろう。
そこでなによりも重要になるのが、本作に登場する天使の翼を生やした男の存在である。しかしなぜその天使が重要なのか、それは本稿のエピグラフに掲げたベンヤミン『歴史の概念について』の一節において示される比喩「歴史の天使」(パウル・クレー『新しい天使』の絵画に基づいた歴史哲学テーゼ)と本作の歴史性とを接続する回路として、この天使が機能しているからに他ならない。実のところ、私が本稿を執筆する契機となったのも、その男性天使の姿から「歴史の天使」の影を見たからである。
彼の存在は街を行き交う一般人とは異なり、風景のなかに挿入された異物的な身体であり、視線の不在(あるいは宙吊り状態)を通じて歴史の層を可視化する。まさに「歴史の天使」の言葉を借りれば、この天使は過去の破局と崩壊が積み重なった瓦礫の山へ視線を向けながらも、否応なくして未来へと押し流されていく存在なのである。壁に刻まれた弾痕や朽ちた建物のショットは、暴力の痕跡として、あるいは彼の視線が退廃と断絶の歴史を見つめていることを決定的に示しているだろう。
さらには彼の身体が、天使の姿のモチーフ元であるヤニス・ツァロウチスの絵画(おそらく『David’s vision』と名付けられた絵画の右上に描かれている天使の絵)の隣にまったく同じ構図で置かれている点にも注目したい。劇中ではその他にも、ヤニス・ツァロウチスの代表作とも言われる『La garde oubliée』と俳優が、上記の状態と同条件のもとで撮影されたタブローショットなどに目を惹かれるが、とりわけ『David’s vision』と俳優の関係が印象的である。
ここでは、生身の身体がすでに表象として固定されたイメージと並置され、fixによって捉えられることで、同一フレーム内における静的な持続のなかに置かれた身体とイメージは、天使の足元に投げられた瓦礫という名の破局(歴史的時間の廃墟)を指し示す指標へと変質しえる。
この観点において両作から導き出される共通項は、俳優の身体が風景の内部に厳密に配置されつつも、その視線はキャメラ=観客に回収されないという態度だ。そして視線の不一致が作用するのは、登場人物を物語的主体から解放し、むしろ歴史的・地理的空間のなかに置かれた存在の提示する働きとしてである。 
『Lothringen!』におけるコレットが、その場所に従属するかのように捉えられ、心理的主体としての人物は後退し、空間との関係が前景化するように、本作における天使もまた、特定の現在に定位することなく、風景のうちに累積した歴史の断片を体現する。しかしその視線は観客と結ばれず、不在のままに留まっている。この視線の不成立性こそが、『Lothringen!』におけるコレットの配置と呼応しつつ、天使の身体を歴史の証人へと変換する契機となっているのである。

これまで述べてきた通り、両作には映像のミニマリズムと歴史性、詩的言語の扱い方、俳優の身体性といった領域において共通するものが数多く見られる。とはいえ、その類似性のなかには依然として決定的な差異があることもまた事実だ。なぜなら、本作はアテネの都市の歴史的変遷と喪失をアンゲロプロス個人の記憶を頼りにめぐったエッセイ的ドキュメンタリーとして提示されつつ、主観的回想と歴史的風景の詩的統合を実現した点において特異であるのに、翻って『Lothringen!』の状況では一貫して個人的事情が排されており、フランスとドイツの対立史を露出する政治的映画、とりわけ反ナショナリズム的映画としての側面が強く、映画そのものがナショナルな歴史の語りに対して批判的に作用しているためである。要するに、根本的な映画の性質が違うのだ。
それもその筈、作家性という観点に回帰して考えても、アンゲロプロスは本質的に物語映画作家であると同時に、長回しと流動的な運動を通じてより詩的で連続的な時間を生み出すが、ストローブ=ユイレの場合は極端に禁欲的且つ演劇的、さらに言えば反スペクタクル的な映画構造と難解なテクストによってのみ緊張を維持する。故に、本作に漂う夢幻的な感触は、『Lothringen!』の厳格で唯物論的な硬質さとは明らかに異なる方向を指し示していることが分かる。
さて、両作の差異についても触れられたところで、そろそろ筆を擱きたいと思う。「結論」とまでは言わないが、最後に、本作と『Lothringen!』を架橋することで見えてきたのは、映画における歴史表象の二つの極である。それはつまり、沈黙と詩的イメージによって歴史を感知させるアンゲロプロスの方法と、テクストと断絶を通じて歴史を現在化するストローブ=ユイレの方法だ。
こうした差異は、本稿のどこかでも先述したように「歴史をいかにして現在において経験させるか」という問いのもとで、歴史の只中に留まり続けることの困難さと、そこから離れようとする運動とのあいだの緊張としても現れているのではないだろうか。


“私の翼はいまにもはばたこうとしている
もといたところに帰ることができればよいのだが
生きているあいだここにいつづけても
私にはほとんど幸福はないのだから”

ゲルショム・ショーレム『天使の挨拶』