時代の進歩と共に、観客の映像に対する咀嚼力は増す。
『パルプフィクション』以来、時系列をバラバラに組み替えて流しても混乱せずに観られるようになった。ひとつの観方を学んだのだ。(『現金に体を張れ』は置いといて・・・)
その昔、回想は過去から現在に順番に紹介しないと観客が混乱すると考えられていた。子供時代の次が青年時代。そして新婚時代、子供が生まれて老いた現在。
この順番をバラバラに並べて紹介すると混乱する。
老いた現在から始まり子供時代、中年期の後に青年時代に戻ったら、急に人物が若返ったように勘違いされる。そう思われて回想シーンですら、時系列を順番に紹介していた。
それを打ち破り、子供・老年・中年・青年・新婚をバラバラに組み替えて回想を描き、画期的だったのが『市民ケーン』と言われていた。特に日本ではそう紹介されていた。
オーソン・ウェルズは、やっぱり山師の印象が強い。
実は本作の方が、『市民ケーン』より8年早い。
ウェルズは本作を参考にして『市民ケーン』を作った、と現在では定説になっている。
実際、設定も似ている。
ワンマン社長の葬儀から始まる。
彼は一代で成功した大物だが、人々に憎まれたワンマンで傲慢な男。
多数の労働者の死亡事故や妻への裏切り。
そういったスキャンダルの真相が回想形式で暴かれていく。
ワンマン社長が初めは好人物で、彼を作り上げたのは妻の功績だと解っていく。
ウェルズが言い逃れ出来ないほど、内容が『市民ケーン』に酷似している。何といっても、バラバラに回想シーンを組み立てた脚本家スタージェスの手腕の見事さ。
しかし成功作かと言うと、首を捻らざる負えない。
やはり『市民ケーン』の方が、カリスマ的で魅力がある。
ケーンには「バラのつぼみ」という謎のキーワードがあり、表からは見えないカリスマ的人物の裏の顔が紹介されていくミステリー要素がある。
残念ながら本作はミステリー性に欠け、他人が見た人物の外面と内面の落差があまり見られない。結局は主人公に降りかかる悲劇も自業自得と思えて、あまり同情的にならず、ドラマとして深みや人間の中の矛盾や謎という文学性がない。
スタージェスの人物は、いつも現実の中で自分が見えていない所がある。
そこから喜劇的な爆発力が生まれるのだが、本作は悲劇なので妻を失い現実が見えなくなった主人公が転落していく。その際に妻と同じ言葉を呟く。悲劇の直前に、何かを察したのだろう。
現実が見えない所からの爆発的な行動や展開が無いので、スタージェスらしさも感じず、ドラマとしての葛藤も薄い気がする。
喜劇の爆発力と、悲劇の力学は別物だという認識に至った。
但し、『力と栄光』という言葉には聖書が絡んでいるようなので、その辺は詳しくないので解らない。聖書に詳しければもう一つ見えてくるものもあるのだろう。
(このレビューも、文章のブロックごとに順番バラバラに並べようかと思いましたが、もうそんな遊びウンザリと言われそうなので止めました・・・)