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「A」のKHのレビュー・感想・評価

「A」(1998年製作の映画)
5.0
地下鉄サリン事件から一年後経った世界で、残されたオウム真理教の信者にカメラを向けた作品。
オウム真理教広報・荒木浩に対し、多数のマスメディアの記者たちが押しかけ、荒木氏の真正面には多数のテレビカメラを向けられており、それをたった1つのカメラ(我々の視点)が捉えるという構造が、過熱する報道の残酷な暴力性を表した衝撃的なシーンだった。

 自分の受け取ったこの作品のメッセージは2つあり、その1つは暴走する組織やシステムへの警笛だと思う。
この映画に登場する人々は、もちろん宗教やメディアの組織を構成する一人一人の人間。この映画を観て誰もが思うことは、異常だと報道されていた信者の素顔であり、それはあまりに純粋で優しそうな人たちであるというギャップ。しかし全体の組織(オウム真理教)としてみれば、それは余りに異常であり、本人たちでさえよく分からない、複雑に絡み合った意思によって暴走している。
これはもちろん、メディア記者に対しても言える。傲慢な記者がいる一方で、何とか信者の声をすくいとろうと震えた拙い言葉でインタビューするNHKの女性記者もいる。彼らはしきりに、「現場としては〇〇だが、どう報道するかは分からない」と責任を転嫁するような発言をする。過熱した報道をしているのは現場なのか、テレビ局の上の人間なのか、それとも自分たちの民意なのか。
構成員が如何に正常だとしても、それらの組織がよく分からない力によって暴走していく、構成員と組織との非対称性がこの作品で暴露されている。

 2つ目はこの作品は上記のことをジャーナリスティックに告発しつつ、信者たちのヒューマンドラマを描いている点。
過熱する報道で社会から孤立し、出家したことで家族や友人からも距離をとっている彼らにとってオウム真理教は1つの大切なコミュニティになっている。不謹慎だが、この映画は彼らの「青春」の一部を覗き見している気にさえなってしまう。(信者と警官が揉めてる所でドラマ的な音楽が流れてきて笑った)
異常と糾弾される彼らの素顔など、この作品を知らなかったら見えるはずもなかった。理解のできない集団だとしても結局は自分たちの住む社会と同じで、その中で起きる機微なコミュニケーションによって形成されていることが明らかになる。
これらの部分がこの作品の観客への説得力に大きく繋がっている。
 
その他

宗教の構造としては人々を救済するための一つのコミュニティとして存在しており、そこでは宗教行為(身体性を伴ったもの)を実施することで赦しを得て救われようとしている。やり方としては正常に見える。

たまに信者とインタビュアーの会話がボケとツッコミみたいになっていて笑ってしまった。(水虫のくだり)
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