JAmmyWAng

カリスマのJAmmyWAngのネタバレレビュー・内容・結末

カリスマ(1999年製作の映画)
4.6

このレビューはネタバレを含みます

とにかく写り込むものとその運動、そして音響といった、目と耳で体感する現象の一つ一つに僕は愛着を感じます。

映画的な豊さによって様々な切り口が許容されていると思うので、嬉々として自分の感想を書き綴ってみますけれども、この作品の森の中ではまさにホッブズ的な自然状態が、つまり「生きる」と「殺す」が一つの意志の元に合致する「万人の万人に対する闘争」としての混沌が、カリスマという木を中心として静かに淡々と広がっているワケです。

そうしたカオスは大きな力によって平定されるべきだと考える池内博之は、それゆえに軍隊などの権力を必要としていたワケで、彼の抱く「健康な人間が望むのは、服従する事だ」という信念は、リヴァイアサンに自然権を譲渡するホッブズのそれと大いにオーバーラップしてくる。

ところがこの映画は、そんなホッブズ的命題をもう一度ひっくり返して、秩序を形成する権力も所詮は平凡な木々の一本一本で成り立っているという認識へと至り、その平凡性ゆえに無秩序(=あるがまま)を受け入れ肯定していくという事をやっている。

役所広司がその認識を獲得すると、カオスは森を飛び越えていつの間にか世界に広がっているという有り様で、こうした飛躍とも取れるような主体と世界の即時的な結託性が、劇中の台詞を借りれば「一種の病気である"自由"」というものを鮮烈に表現していくワケです。

炎に包まれる世界を目にしながら、肯定される事によって解き放たれた混沌に、不謹慎ながらも僕は高揚感が沸々と湧き上がってきてしまって「オラすっげえワクワクしてきたぞ」と思いましたのでござる。

ところで僕はこの映画の、洞口依子がお金を奪うシーンがめちゃくちゃ好きです。

森という自然の世界から抜け出したい洞口依子にとって、貨幣とは外界である人為的な社会へと繋がる象徴としての機能を果たしているワケだから、彼女はそれを欲しいがままに奪い取る。奪われた側の大杉漣達はそのナチュラルさ故に虚を突かれるも、慌てて間抜けに追いかける。その一連のやり取りを持って、松重豊は笑いながら勝手に役所広司との交渉を成立させる。

そのすべての等身大の無秩序が愛おしくて、「あるがまま」とはかくも面白く、躍動性に溢れていて、そうした有り様を眺めていると何だかとにかく元気が出る。

それはまるで黒沢清による芥川龍之介の『春の日のさした往来をぶらぶら一人歩いてゐる』といった趣であって、クロサワ的にはアキラとキヨシによって龍ちゃんを中心とした輪が形成されている事を確認したからには、ここはやはり声を大にして「くるりんぱ」と言わざるを得ないのであります。
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