ニューランド

妻の場合 後篇のニューランドのレビュー・感想・評価

妻の場合 後篇(1940年製作の映画)
3.1
✔️🔸『妻の場合』(3.1)🔸『若き姿』(3.2)▶️▶️

 三浦光雄と言う名を強く意識したことはなかったが、思い起こせば半世紀から40年前、10年間位の間に初めて見た『今ひとたびの』『藤十郎の恋』『婦系図』『腰辦頑張れ』らの限りを感じさせない驚くべき自由な浮遊感、21世紀になって観た『白薔薇は咲けど』『雁来紅』『麦笛』らも同じ感動、それら圧巻才気優雅の印象が。また、昔の方に観た『雁』や21世紀になってからの『多甚古村』等不思議な重力を表した作もある。要は他の著名撮影監督のような、ストーリーやテーマの強さ深さをより究めるのではなく、表現自体の規制に嵌められない自由と可能性を感じさせてくれる。それが作品の部分ではなく、全体に及んでるのが驚異や嬉しさ感じさせる撮影監督だ。レンズ・照明・カメラワーク・美術や自然との侵食・それらの凡てについて驚きべき高度・多数の札を持ち合せ、そこから選び・絞り、時に揺する。もちろん、内容と表現が隙間をあまり感じさせず渾然一体となったタイプの、傑作『虞美人草』『朝の波紋』『煙突の見える場所』『わたしの凡てを』『夫婦善哉』らもある。全体に家屋内、屋外自然の、空間と位置を共に素晴らしく捉え得るも、す。
 『妻の~』。何と云う豊かな銘品。土俵を同じに取れたらアカデミー賞を獲ってもおかしくないくらい。内容はともかく(しかし大方せっついてない)、撮影+美術(+音楽?)の黄金コンビが、これ程とはの世界を提供してくれる。会社オフィスと慎まし自宅、吉祥寺の豪華洋館、車や列車や客船や自転車の走りに同化、から始まり。
 大学同級と佐渡同郷が共通の、2人の壮年再会。名門で親戚や引き立て周囲多い、現・研究所学者と、貧しく姻戚もない出で、学生時代の思想も足枷、今や一介のサリーマンで金次第が信条、株に野心燃やす男。前者は欧州帰り船で知り合った神戸令嬢と新婚も、別相手用意の両里の、嫌がらせや偽情報ばらまきで、別居状態へ。その北京赴任の間、豪邸の留守を預かる貧家庭だが、帰国後も同居居候が続く、子供もなつく、また里からついてきた頑な女中も仮の奥様に心を開いてく。一方の夫はのめり込み株でピンチを、2人に別々に助けられるも、別居妻実家からの偽手紙で妻の不倫疑い友情破棄へ。揺らぐも基本・妻の不変の心は、相手の妻や夫を立て直す。家財売り払い再出発の夫妻は、船上で水兵らの活力に励まされる。「(「全ては金から。」)いえ、心、そして愛の方では。ひとつだけ、お願いすれば、株だけは、危ない、止めて」「(詫びに離婚切り出されても、)あくまで何処までもついてく」「揺らいだは事実も、(皆、)奥さんの心配り、心尽くしで」
 波風立ちきらぬ・煮えきらぬストーリーに、カメラが映画的至福をまぶしてイメージを自然に柔らかく浮上させてく。グレーも中間性ある確かさと分かりやすさ~顔や家屋や自然、小物・小道具(意図的操作も)を忘れないアップ等押さえ~ゴルフボール・個性的電球・食器・手紙・手前鞄・掛時計ら、乗り物や走るのへのフィット・中・疾走感見事、寄るやパン・90°変や並置での室位置正確押さえ、自然景や走る姿のモンタージュ、オーバー時も含め的確音楽。
 まぁ、ヒロイン入江の夫藤田がちと愚かすぎ、気弱ふらつきキャラ過ぎるが(戦後だと、佐分利に対する原のように妻が見限る展開に)、国威や戦争の影も(ラストを除くと、また、資本主義社会の批判性あっても)後年からのイメージだと少なく、昭和15年は未だこんな映画可能だったのか。米アカデミー賞作品賞にまったくひけはとらない逸品。映画の格がしっかり。
………………………………………………
 翌々日夜、また同じ会場の近い席に。あからさまな人工的ライトは数える程以下、軽めのズーム前後を各一回使ったくらいで、コントラストというより、存在し、何かうごめく、質感自体の確実さを説明繋げよりも活かしたルックの、太平洋戦争か始まり徴兵令が敷かれ、それまで歯がゆい思いをしてきた、大日本帝国下の朝鮮半島の民らの、待望の誇りと自覚に励む日本兵と名実ともになる姿と、それを教え導く日本人教官の話の『若き姿』。自分から汚れてもと行かぬ、連帯としての責任がともすれば欠ける民族的欠点の指摘は何ともだが、朝鮮人同士が日本人として負担家族の問題も解決し結婚に至る話も。寄る退くやフォロー移動、どんでん、切返し、90°変、ズレ、寄り、らが控えめに機能し、家屋内外の位置と関係を最効果で示す、内的ドキュメンタリー作となる。朝鮮の街並みも美しく、モンタージュで人らの同じ姿勢を嵌め込み、並べられたりの効果もあるが、自然や夜間は殆んど顔にもライティングしない、存在と世界そのものを捉え、雪山での列らのスキー訓練と、遭難、救助の終盤では、風と雪煙、暗さ、多数スキーの点在と動き、を併せ、アングル・カメラの高低・スキー列らの、交錯・拡がり・飛翔、そして只うずくまる形態・停滞並べ。空中にフッ跳ぶ短いカットら、救助引き揚げ時の心地いいモンタージュめもあるが、質実でストレート無駄のない豊田タッチに従い、場や状況を離れたトーンはなく、ただ、荘厳で自然と向き合う偶然華麗も映えもすトーンが、感知能力を超えて続く。重さと効果を見え見えで狙った愚鈍な木村大作等とは次元が違う。邦画史上の名作といわれる『八甲田山』より上だと思う。
 かなりブツ切れの多いプリントで、台詞も色々消されてるが、時たま観るには一服の清涼剤だが、これで三本集中的に観ると、三浦の世界は、商業映画を超えた、且つ劇場だけしか味わえない、現実と映画の係わりを崇高なものにしてる高位な奇跡と実感してくる。ちょっとない、僥倖。

















     直後感
■『妻』。小物小道具ー球・皿・鞄・電球・時計、中間トーンー顔・家屋・自然、乗り物や走るー主観やFや中や勇景、モンタージュ~自然と走る、寄るやパンー90ー並べー室位置、音楽オーバー
学生思想まで、金次第、心や愛こそ、手紙で動、株ー野心ーサラリーマン、裕福から、あくまで付いてく幸せ、いい人、
ニューランド

ニューランド